授業づくりと学級づくりのはざまで(前編)

自分が暮らす地方では、臨時休校が明けて約三か月が経過しようとしている。

学校を訪問した同僚から伝え聞く口頭復命の中から、様々な学校の状況を窺い知ることができる。

例えば、「三密」の回避に関する対応では、「新しい生活様式」に、明るく楽しく子どもたちが順応できるようにする配慮が見られた。いくつかの学校では、手洗いの歌を独自に制作したり、流行歌の替歌でソーシャルディスタンスを奨励したりしている。一番笑ったのは、学年の感染防止キャッチフレーズが「断密」(だんみつ)。この学校には、昨年、あるテレビ取材で壇蜜さんが来校した。だからこそ通じるのだろう。

この「断密」校、とてもよく教職員の共通理解が図られているところがあり、感服させられた。訪問の約1週間前になると、訪問先の学校から教育計画の冊子を送付していただくことになっており、必ずその内容を熟読し、学校経営の重点や研究推進の方向性について予習した上で、実際の様子を見せていただいている。「断密」校の訪問計画は、他に類を見ないほど、学校経営や研究推進の重点が、全ての学年・学級経営案に反映され、発達の段階や子どもの実態に応じて目指すべきところが明確に示されていた。

そんなことは当たり前だろう、とおっしゃる方もいるのかもしれない。けれど、これまで数多くの学校の教育計画を拝読してきた中で、そのような学校は数えるほどしかなかった。中には、経営の重点が意識されていないことが、実際の授業の中でも露呈してしまっているケースも少なからず見てきた。たかが「紙上の空論」と侮るなかれ、である。校長のリーダーシップというものは、良くも悪くも一人一人の教員の姿となって露呈する。隠れたカリキュラムが機能するか否かは、学校の経営方針と切り離して考えることができないものであるはずだ。

さて、この「断密」校、教育計画の紙上にかなりの完成度で反映されているだけあって、全学級の授業を一巡させていただいた際にも、経営の重点である子どもの自己有用感や子ども同士の共感的人間関係の向上に繋がる手立てが、そこかしこに見え隠れしていた。県内でも有数の大規模校である。様々な個性を持った先生方と子ども達がいる。そんな状況の中では、たった一つの簡単なように思える提案すら共通理解を図るのが難しい。それが、やらされ感もそれほどなく、それぞれの教師の個性に応じた取り組み方が容認されていた。

こういうことを、カリキュラム・マネジメントの重要な要素として見ることも大切だろうと感じる。つまり、校長の経営方針が、隠れたカリキュラムレベルで、各学級担任や専科の教員、少人数加配の非常勤講師にまで浸透し、実践化されているかどうか、という指標である。

もう少し焦点化した言い方をすれば、どの学校にもある「目指す子ども像」を具現する手立てが、具体的なかたちで各教員によって取り組まれているかどうか、ということである。「目指す子ども像」がお題目になっていたり、子どもの実態と乖離していたりするところでは、どんなに単元配列や教科等横断的な学習過程の工夫をしても無駄だろうということだ。

さらに言うなら、学校経営や研究推進の重点を反映した隠れたカリキュラムが、授業づくりのレベルにおいても具現化されていなかったら、全てが水泡に帰してしまう。

かつて、「学級経営が素晴らしい」と校長から絶賛された教師を何人も見てきた。その先生方の大半は、授業も非常に協同的かつ探究的で、質が高かった。一方で、同じように賞賛されている割に、なんだか子どもたちの様子が変だな、と思う学級もあった。教師のコントロールが効いているのは分かるのだが、子どもたちにそのことが見透かされている、あるいは、そのコントロールが強固であるがゆえに、子どもたちがかなり諦めたり割り切ってしまったりしている学級である。

後者のような学級でよく目にする授業の光景は、次のようなものだ。

・妙に子ども達の動きがなく、徹頭徹尾、背筋を伸ばして私語を一切発しない。

・指名されると「はいっ」と力強く返事をするが、発言はどこかマニュアル化されていて、その内容について深掘りする教師の意識もない。子どもは発言が終わって着席すると、周囲の数人と目配せをして微笑み合う。(自分には、その微笑みが「ね、これくらいでいいでしょ?ちょろいちょろい」という意味に感じられてしまう)

・教師の説明が始まると、そんなに長くない話であるにも関わらず、ほぼ全ての子どもが下を向く。(自分にはやり過ごしているように感じた)

・授業の決着は全て教師がつける。そのことに不満を訴える子どもは一人もいない。

・教師が設定したルールからはみ出す子ども、そのルールを頻繁に冒してしまううっかり者の子ども、特別な教育的ニーズがあるがゆえにそのルールの遵守が困難な子どもは、あらゆる学習活動において「みそっかす」のような特別ルールや別メニューを与えられて庇護される。

そしてこれが極め付けなのは、

・休み時間や放課後になると豹変する。(廊下を絶叫して走りすぎる、特別教室など教員の目の届きにくいところにたむろする、注意したりたしなめたりすると開き直った態度になる、など)

このような症状が、自分には気になるのだが、全く意に介さない教員や管理職もいて、上記のような学級の担任を称して「学級経営のプロフェッショナルだ!」と賞賛していた。正直、開いた口が塞がらなかった。この管理職の言う「プロフェッショナル」は、「問題を封じ込めることに長けた教師」ということのようだ。

問題を封じ込めようとする学校経営や学級経営、授業づくりの一方で、もう一つ気になる傾向がある。

関係機関との連携と称した、安易な依存である。

特別な支援を必要とする子どもや、そこまでではないまでも、学級担任が接し方に困難を感じるような特性のある子どもについて、スクールソーシャルワーカーやスクールカウンセラー、特別支援教育担当者への相談依頼が後を絶たない。ほぼ毎日、このことに関する依頼の電話がかかってくる。今年はコロナ禍の影響からか、昨年度の3倍のペースである。

もちろん深刻な事案もあるので、全てを安易だと断定するつもりはない。

ただ、もう少し学校で、学年や学級で何とかできたのではないだろうか、と思える事案が少なくないことも事実だ。

一体、学校で何が起きているのだろうか。(次回に続く)

授業づくりと学級づくりのはざまで(前編)」への2件のフィードバック

  1. こんばんは。2020/6/21の日付のブログがなぜか今僕のスマホに届きました🤔本日やっと1学期の最終授業日を終えました。明日は終業式。2学期はわが6年生の子供たちは鬼のような行事スケジュールに忙殺されそうです…。取り急ぎ伝えたかったことは,今日のブログの終わりから5行目〜の部分。僕も全くその通りだって思います!先生方の中には(特に動きたくないベテラン・女子が多い)「この子は◯◯だから」と,勝手に病名付けちゃう人もいたりして…😅なんだか困りますよねえ…。以上,あとはまたゆっくりと(笑)いつも支離滅裂ですみません

    1. おはようございます。昨晩は、投稿を終えてゆっくりと飲んだくれていました。そしたらニュースでついに岩手にも…。こんなことを申し上げると不謹慎だとお叱りを受けそうですが、岩手の皆さんは、これで逆にホッとしたのでは…などと考えていたところです。
      終盤5行目からのところは、書こうか書くまいか、数週間悩みました。投稿した内容のような兆候は既に一ヶ月半ほど前から出ていましたが、現状はもっと難しくなっています。
      今回の投稿の原案は、実は5年前に一度下書きをしていますが、勉強不足から考察が行き詰まり、自分なりの考えが明確に持てずにいました。
      学校が休業状態になったこの3月から5月初旬にかけて、たくさんの文献に当たりながら、ようやく自分なりの学校づくり、学級づくり、授業づくりのビジョンが一体となったものになりつつあります。後編の投稿までまた時間が掛かりそうですが、そこはしっかりとまとめて、いずれ現場に出る時の基盤を固めたいと考えています。
      ということで、鬼のような行事の準備を着々と進めてくだされば、と思いました。それにしても行事?!
      あ、そうか、そちらは中止する理由がこれまでなかったんですものね。これからが大変ですね。本当にお体を大切になさってください。

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