小中一貫教育の現場にいると、興味深い話題に事欠かない。どうしても生々しい話題が多くてここに書きづらいので、1年以上に渡り自分なりの表現を探し続けて沈黙してきた。
結局、上手い表現は見つからず、ところどころ有り体に、ところどころ遠回しに書くしかないのかと思う。
先日は、同じ小中一貫教育を目指すとある地域の冬季研修会に呼ばれて、1時間程度の講演をしてきた。
その時テーマにしたのは「越境」である。
小学校文化と中学校文化の諸々の壁を越えること。
例えば、中学生は、自治的な活動の中で必ずくだけた内輪受けする表現で緊張感の「ガス抜き」をし、それが集団の結束を一層高めることから、教師もある程度は容認する部分がある、という文化。場合によっては、教師自身も(ギター片手に歌ったり、コント風の寸劇を披露したりして)そこに便乗する。
しかし、小学生は、心温まる団結や、個人と集団の成長を誇るバックストーリーを常に意識して、行事などの大きな取組の最後に感動を共有する文化。教師は、感動体験を言葉で止揚し、方向付けたり、増強したりする(ちょっと教祖的な)役割を担う。
この二つは、小中一貫教育の現場では相容れないものとして捉えられる。そして、一緒の活動は教育的に相応しくない、いや、小中一貫なのだから落とし所を見つけて一緒に活動するのが教育的だ、の二項対立になる。
教育的に相応しくないというのはどういうことか、最初は驚きをもって聞いた。例えば学校祭の前日祭や打ち上げ的に行う閉祭行事では、生徒会の役員や学校祭の実行委員が中心となり、全校の士気を高めるためと称して寸劇風のセレモニーを企画する。
その内容には多分に内輪受けする内容が多く、その生徒の人となりが校内である程度認知されていることを前提として笑いを誘発する要素が満載である。
中学校現場が長い教師は、これを必要悪として見逃すことが、不文律としてあるようだ。これまで必死に企画運営を頑張ってきたのだから、これくらいは容認してやろう、という理屈である(と予想しながら見ていた)。冒頭で述べた「ガス抜き」とは、学校祭という大きな行事の企画運営は、生徒にとっても教師にとっても、かなりの重圧であるため、緊張感を維持するためにくだけた態度をとる場面を意図的に設けることが、精神のバランスをとるために最適だという全体的な雰囲気の仮称である。
これ自体に特に異論はない。
そして、小学校教師がこれを小中一貫の現場で目の当たりにした時、余程生真面目な教師でない限りは、「ちょっとおふざけが過ぎる部分もあるけれど、こういうことも必要だろうな」と、やはり容認するように思う。
少なくとも「ひどい、不真面目だ、けしからん」とは言える雰囲気にないことぐらいは察するだろう。
なぜなら、中学生が、ここに至るまでの経緯で、小学生にはとてもでないができないであろう努力と苦労を経ていることを、小中一貫の現場で見ているからだ。
ところが驚くのは、主に中学校現場を渡り歩いてきた教師が、「ガス抜き」をする中学生を小学生が見ることに抵抗を感じるという事実だ。
そんな姿を小学生には見せられない、という言い張るのだ。
さらには、学校祭は小・中別で行わせてほしい。中学生が、小学生に気兼ねして存分に発散できず可哀想になる、という論にまで発展する。
小学1年生が、内輪受けのコントを演じる中学生を見て、中学生に幻滅する、あるいは、自分たちもそのようにしてよいのだと誤った受け止め方をして、日常の学びにまで悪ふざけする空気が蔓延する。
そういうことは、あるのだろうか。
まずは、そこから疑って考えてみた。
私は、1日の中で3、4回程度校内の授業を見て回る。目的は様々なのだが、実はそのうちの一回は、自分のガス抜きのためである。
そんな「ガス抜き」をなんとなく察してくれる教員は、小学校現場を長く経験してきた教師に多い。
1年生の担任は、そういう教師の一人で、教室を訪れた私に、よく話を振ってくれる。
先日も、算数の時間に教室にぶらりと入ると、担任は「ほら、校長先生もお助けに来てくれたよ」と言ったので、私は某戦隊モノの主人公のようにポーズをとり、「お助けマン!」と叫んだ。(そんなあほな校長いるか、と眉を顰めた方は中学校の先生だろうか)
1年生は「ワハハ」とひと笑いしたが、すぐに算数の問題に向き直った。
私はその切り替えを見て(個人的には少し寂しい気持ちになりながら、公的な立場からは)感心し、問題が解けなくて困っていそうな子どもたちに声をかけ、相談に乗りながら3分ほど教室内を巡回した。その間、私におかしなちょっかいを仕掛けてくる子どもは皆無で、みな眼前の課題に集中していた。本当に静かな教室だった。
子どもたちは、家に帰って夜になると、仕事から帰ってきた父親が酒に酔って少しばかりおかしな言動をする姿を見ることもあるだろう。
朝、目が覚めても登校の支度ができず、その日持っていくはずの学用品が準備できていなかったり、前日に見せる必要があったお便りを見せていなかったりした子どもは、感情の抑えが効かないままに怒鳴りつけたり、泣き言をくどくどと続けたりする母親の姿も見ることがあるかもしれない。
だから、ポーズまでとって「お助けマン!」と叫ぶ校長くらい、まあ、そんなこともあるか、と大目に見てくれるのだ。あるいは、「しょうもないな」と呆れて見過ごしてくれるのだ。
小学1年生にもそれくらいの経験と分別は備わっているのではないか。
ちょっとばかり内輪受けのおふざけの入った寸劇、でも最後は「学校祭をみんなで成功させよう」という心からのメッセージで締めくくるバランスもとった中学生の寸劇を見せられて、純粋な心に邪な要素が入り込み、将来にわたって大きな瑕疵となる小学1年生が、仮にいたとしよう。
1年生の時に中学生のくだけた表現を見ることをその子が幸いにして(不幸なことに?)免れたとしても、その後、何かしら似たような出来事に行き合ったときに、それを「ガス抜き」と受け止めることができなくて自分の中でうまく処理できず、困った事態に陥ることすらあるのではないか。あるいは、周囲を困らせる反応をしてしまうのではないか。そんなことを考えてしまう。
もしかすると、「小学生に見せられない」と言い張る中学校現場の長い教師は、そんな幼少期を過ごしてきたのではないか、と穿った見方までしそうになってしまう。
「ガス抜き」のない小学校というラベリングを、小学校の教師がことさらに強調する場合もあるが、多くは、小学校経験のない中学校教師の、小学校教育に対する過大評価というか、誇張されたイメージに対する盲信のように感じる。
「ガス抜き」のない学校生活、「ハンドルに遊びのない」乗用車、これらは、どこかで爆発事故や衝突事故を起こす要因となりうる。
幼児期にたっぷり遊んできた小学1年生なら、そのことを経験則で感じ取っているはずだ。だから、おままごとをしていても、お父さん役とお母さん役の間に緩衝材として犬役や猫役を入れたり、時にはなぜかシマウマ役を入れたりして、夫婦の衝突を回避する。
海賊ごっこをしていた幼稚園の子どもが、トリックスターのような船員を入れて笑いやトラブルを起こし、船長と他の船員との間に横たわる緊張関係の緩和を図ろうとする姿を見たこともある。
こうした遊びの中の一場面は、いくら遊びであっても緊張が続くと「ガス抜き」が必要になることを、幼児ですら感じていることの証左のように思える。
子どもたちも、真剣に遊ぶ中で「ガス抜き」を求め、実行しているのである。
中学生の「ガス抜き」を見て、心を痛めたり、必要以上に便乗して崩れた空気を助長する1年生がいたとしたら、それこそが「ガス抜き」の大切さを学ぶよい機会だろう。その大切さを感じることができるよう、大人が適切に声をかけてやればよい話である。長い遺恨となって小学1年生の将来に陰を落とすような問題ではないように感じる。
仮に1年生に見せられないような「ガス抜き」の実態があるのだとしたら、それは中学生同士であっても見せてはならないし、見るに耐えないものであるはずだろう。
小学生も中学生も、互いに上手な「ガスの抜き方」を学ぶ経験ともなる。小中一貫でない学校では、これができないのだから、逆にメリットですらあるはずだ。
こんな気持ちから、ある日の会議で「くだけた中学生を堂々と見せたら?」と発言した。
中学校現場が長かった先生方は、まんじりともしない表情で、じっと私を見、反応を示さなかった。
私の「ガス抜き」は失敗に終わったようである。