「◯◯直し」のある学校

過日、自分が主担当を務める事業を実施した。

いま、国語科の授業づくりで何が課題になっていて、その改善に向かって中堅どころの先生が、どのような努力を積み重ねているのか。

そういうところを、管轄区域のできるだけ多くの先生方に見ていただくことができる、重要な機会だった。

今年度の序盤でありながら、ここ数年で最も注力した事業だ。

授業者はちょうど40歳の中学校の女性教員。

初めて出会った頃は、今とは異なる地域で、まだ20代後半だったことを考えると、全く違った地域で、立場も微妙に異なった状況で、こうしてまた授業づくりを共にすることができることが、妙に感慨深かったりする。

授業はというと、想像した以上に挑戦的な単元構想であるにも関わらず、恐ろしいほどに生徒が主体的であった。いや、きっと授業者にとって挑戦的であったこの試みは、生徒にとってはまさにこれこそ本当にやりたかったことに近かったのではないかと、のちのち省みることになる。

この単元を構想するに至る経緯は次のとおり。

授業者は、俳句の解釈について、同僚の国語担当教師とあまりにもイメージしていることの差が大きいことに、ある日驚く。

互いのイメージが話せば話すほどに異なり、しかもなかなか言語化できないことにもどかしさを感じた。そこで、ふと思いつきで写真にしてみたところ、ああそうか、と合点が行くことの多さに面白さを感じる。

これは、生徒も乗り気になるかもしれない。そんな直感が働き、単元化を考えるようになる。

このタイミングで、私は彼女から単元構想を打ち明けられた。

大概の助言者は、これを止めるだろうな、と思ったので、実現させることにした(笑)。

もちろん、そのことは内心にとどめておきながら、彼女には結構意地悪な問いかけをした。

「写真を撮る技法と解釈の内容との関連はどのように説明をつけるの」

「生徒は一人で撮影するの。だったらどこが協同的な学び合いになるの。」

これで「やっぱりやめます」というのなら、残念ではあるけれど、それはそれまで。

それでもなんとかしてやろうとする意欲を失わないなら、全面バックアップしようと考えていた。

結果は後者で、こうしたところからも彼女が数々の経験を経て、実践者としてのしたたかさとしなやかさの両面で成長したことを感じた。

こんな挑戦的なことでも、うちの生徒はきっと耐えられるだろう、国語科の授業として成立する条件はきっとこういうことだろう、という見通しが、単元を構想した時点である程度立っていたということである。

さて、どのような単元であったのか。そろそろ書かないと。

俳句を読んで感じたことを、写真に表現するのである。

しかも、それを個人個人で撮影するのではなく、グループとして一枚をつくる。

実際の授業では、撮影しては俳句を読み直し、再撮影しては読み直したことが表現できたかどうかを検討し…という試行錯誤が、一単位時間の中で何度も繰り返される、実に主体的な学びの姿が実現した。

妹を泣かして上がる絵すごろく(黛まどか)

この句を写真にしようとしているグループでは、写真の構図をつくるために、「上がった瞬間、姉はどのような表情やしぐさを見せたか」ということを生徒が話し合っていた。

打開策が見えない状況に陥ったのを見て、授業者が介入する。

「このお姉さんは妹に最初から勝つつもりだったの。それともそのつもりはなかったけれど勝ってしまったの。」

グループの女子の一人が「偶然」と答えると、別の男子が「え、勝つつもりだった」と反論する。

授業者は、そこでそれ以上を問わない。そのかわり、「そこがはっきりすれば、お姉さんのポーズがどうなのかが決まるよね。」とだけ告げて別のグループへと移っていった。

こういうことなのだ、と実感する。

かつてこの授業者は、どのような画面構成にするか、その中で、どのようなポーズが、どのような解釈によって実現するのか、その際、どのような解釈の対立構造があるのか、ということの問題一つ一つが、授業の中の重要な要素としてつながっていなかった。

それを、「旦那様!。までのおよそ3.5秒ー『故郷』の授業からー」(201711月の投稿)で書いている。自分にとっても、これは大きな問題だったということだ。

彼女にとって、そして自分にとっても、今回の授業は、一昨年の自分の課題をクリアするためのリベンジマッチという意味もあったのだ。

最も印象的だったのは、最後の作品説明の場面だった。

青空に指で字を書く秋の暮れ(小林一茶)

まるで青春小説の一場面のようなこの句を映像化した作品を、教室に設置した大画面モニターに投影しながら、汗をかきかき説明した生徒に、授業者は問い返した。

「青空に字を書くときの腕がピンと伸びているのが印象的だね。普通なら肘は曲げて字を書くんだろうけれど、どうして伸ばしているの。」

これに代表で発表した生徒は絶句した。私はこの撮影場面をたまたま見ている。

そして、撮影者の女子生徒が、「もう少し腕、伸ばして」と注文をつけているのに対し、被写体であり代表説明者でもあった男子生徒は、あまり疑問を呈することなくそれに従っていた。暗黙の了解があったのかもしれないし、私が撮影場面を見る前に、それについてのディスカッションがあったのかもしれないが、いずれ、この男子生徒は、授業者の鋭い指摘の前に、そのときの自分の解釈を内面で問い直したのだと思う。

というのも、彼は、モニターの反対側に掲示してある、俳句が書かれた短冊を振り返り、じっと読み直したのだ。

のちの授業についての助言で、私は「あれこそまさに<振り返り>でした。」と評価したが、全く笑いはとれなかった。

ただ、冗談ではなく、あれこそ本当に振り返りなのだ。

自分が無意識にしたしぐさを、「あれ?どうしてだっけ。」と思わず問い直し、叙述に立ち返る。学び直しのある学び合いこそが、学校生活の醍醐味である。なぜ学校があるのか、ということへの答えの一つでもある。

この単元は、一単位時間のみならず、単元構想全体が、学び直しのモードに貫かれていた。

だいたい、こういう挑戦的な単元構想をしても、解釈も、撮影の機会も、一度きりである。

例えば、1 俳句を読み、教科書の解釈について理解する、2 自分で好きな俳句を選び、同じ俳句を選んだ友達と解釈について交流する、3 解釈したことを写真に表現し、その意図を説明し合いながら交流する、といった流れではないだろうか。学び直しの機会は、せいぜい2の学習活動だろう。だが、そこで話し合われたことが写真に反映されることは稀で、生徒によって学びの成果に個人差が生じることは間違いない。

この単元では、1 俳句を読み、教科書の解釈について理解するとともに、俳句を解釈する際の大切な視点について考える、2 共通教材である俳句について解釈したことを鑑賞文に書く、3 鑑賞文に書いた内容を交流し、グループで写真に表現する、4 自分で好きな俳句を選び鑑賞文を書く、5 選んだ俳句が同じ者同士のグループで写真を撮影し、互いの解釈について捉え直す(本時)、6 写真を通して捉え直した解釈をもとに、鑑賞文を書き直す、という流れである。

時間数の多さ、写真を撮るという活動を前後して、鑑賞文を書く、鑑賞文をめぐる解釈についての応酬がある、という点で、力のない授業者であれば本筋を見失ってしまう単元計画であるに違いない。

解釈の捉え直し、写真の撮り直し、鑑賞文の書き直し、以上三つの「◯◯直し」が、有機的に絡み合い、それぞれの質を高める手立てとして成立している。

挑戦的な単元構想である、と冒頭に書いたが、これをこれだけ国語科の本質的な学びとして具現した例は、近年他に類を見ない。

余談だが、この単元構想に関わったのは、自分以外にもう一人いる。冒頭にも登場し、単元を着想するきっかけとなった、もう一人の国語担当の教員である。

彼もまた、実は一度、当ブログに登場している。(2015年10月の投稿)この時は他校勤務であった。彼は、この時の投稿でも述べたとおり、自分も一度同職した間柄である。こうした存在も大きかったことは、いうまでもない。一人で考え込んでいても、絶対に成し得ることがなかった仕事だったということである。

授業後の協議で印象に残った参加者の問いを、二つ挙げておく。

これは、授業者の課題ということではなく、恐らくは、参加者自身にも返っていく問いであるだろう。

みなが、このことに自分なりの信念をもって向き合う必要がある。

問①「なぜグループで撮影させたのか。解釈が一人一人異なるなら、それぞれに表現したいことを写真に投影させてあげる場が必要だったのではないか。」

問②「明らかに間違った解釈をしているグループもあった。それをなぜそのまま写真に表現させたのか」

これからの授業づくりを考えていく上で、どちらも説明できるようにしておく必要がある、重い問いである。ここに、授業者の授業観が顕在化する。