学校再開後、3週間の様子から

自分の職場が管轄する区域の学校は、臨時休校措置が解かれて3週間が過ぎた。

学校再開直後に想定された懸案事項は、子どもの生活リズムの変調に伴う心身の不調だった。これは教員にも同じことが言える。

さて、実際はどうだったかというと、子どもも教員も、思った以上に日常生活を取り戻している。特に先生方に至っては、「子どもが学校に帰ってきて、この上ない喜びを感じている」という声が目立つ。とにかく学校が活気に満ち、子ども以上に先生方が張り切っている。これが訪問をした上司や同僚たちの共通した感想であった。自分も所用があって数校にお邪魔したが、やはり同じことを感じた。

老婆心ながら懸念されるのは、「学校再開ハイ」とその反動からくるくたびれだろう。「遅れを取り戻さなければ」という使命感もあいまって、「自分が頑張らなければ子どもたちがきちんと育たない」という意識を過剰に働かせてしまう教員が増えることが懸念される。真面目で有能な先生にそういう症状が出やすいのではないか。とにかく、行き過ぎた管理や、行き過ぎた指導、行き過ぎた使命感が、無言の同調圧力となって職員の関係に軋轢を生じさせないように、管理職が率先して温かでゆったりとした構えを見せてほしいものだ。今のところ懸念したほどの極端な話は聞いていないが、兆候かな、と思うケースはいくつか漏れ聞こえている。自ら気づいてくれることを祈るのみである。周りにクールダウンの大切さを感じさせてくれる同僚や上司がいればよいのだが。

さて、子どもはというと、やはり柔軟というか純粋というか、登校しぶりの話や気疲れからの不登校傾向などは、ほとんど聞いていない。張り切り過ぎたりはしゃぎ過ぎたりして、小さな怪我は多いそうだ。これは随分と多くのところから聞こえてくる。しかし、こちらに上がってくるレベルの事故や救急搬送に至るようなトラブルは、思った以上に少ない。自粛生活に慣れきった体が、学校においても知らず知らず自己抑制をかけるようになっているのだろうか。

張り切っている先生方が多い一方で、最もよくある問い合わせが、「ペアやグループでの話合い活動ができない中で、どのようにして対話的な学びの充実を図ったらよいか」という類いだ。

令和2年3月24日付け「新型コロナウイルス感染症に対応した学校再開ガイドライン」p4「(2)近距離での会話や発声等の際のマスクの使用等」には、このように書いてある。

(引用開始)

 多くの学校においては人の密度を下げることには限界があり、学校教育活動上、近距離での会話や発声等が必要な場面も生じることが考えられることから、飛沫を飛ばさないよう、咳エチケットの要領でマスクを装着するなどするよう指導すること。

(引用終了)

他の文書をくまなく探してみても、「話し合うな」とは一言も書いていない。ところが、他の管轄区の指導主事が、話合いはできるだけ避けるようにと、指示したという話も聞いて少し驚いている。国の文書というものは、広く地域の特色に応じた柔軟な対応が可能となるよう、できるだけ具体性を避けつつ、しかし多様な解釈が過剰になされ過ぎないギリギリのところで着地させるように配慮されている。時にそれが優柔不断に感じられたり、遠回しに強権発動をしているように受け止められたりすることもあるが、それはきっと読み手の状況がそのようなバイアスを発生させているからである。

読み手の状況が全国規模で強大な力となって発動してしまった例として、真っ先に思い出すのは、総合的な学習の時間の領域例である。文科省が取り上げた領域例「国際・環境・福祉・情報」は、必須条件であったり最低基準であったりとして、まことしやかに流布してしまった。みんなが、教育内容を学校が裁量できるという前例のない教育活動を任されて、不安の坩堝に陥ってしまい、パニックになったのだと思う。「例」なのだから、地域や学校の実情に応じて柔軟に変えることはやぶさかではないはずだ、といくらこちらが主張しても、当時の行政担当者は首を縦に振らなかった。(まあ、今の自分の立場の人なのだが…)

話が逸れてしまったが、とにかく、国の文書に書いていないことまで、都合に応じて良くも悪くも受け取らず、的確に理解してほしい。「話合いはできないわけだが…」という問い合わせをしてくる学校で、実際に行って様子を見てみたら、子どもたちは、手洗い場でくんずほぐれつしてじゃれあってるし、グラウンドで50人くらいの集団が密集して走っているのである。そのうちの半分くらいがマスクをしたままだったので、そっちの方にドキドキしてしまった。話し合ったって、今更なんの違いもないだろうという状況である。これではだめだ、規制を強化しろ、と言いたいのではない。学校を再開するとは、そういうことではないか、ということだ。くだんの国のガイドラインも、もう避けられないことは避けられないのだから、と言っているわけだし。

中には、今回の事態を、旧態依然とした教師が一方的に説明する授業形態に戻すことの方便としていることについても漏れ聞いている。これは当然予測されたことである。授業者からしてみれば、そのほうが楽なのだし、とにかく遅れた授業を取り戻し、時短を図るにはこれしかないだろう、と居直ってしまうことは、さもありなんというところだ。

こういう状況だからこそ、学習指導要領の趣旨や、教育が長い歴史の中で積み重ねてきた実践や研究の成果に、しっかりと目を向けるべきではないか。特に、時数確保に関する教育課程の編成には、様々な英知を結集させたいものだ。

例えば、国語や体育など一部の教科の学習指導要領では、小学校の段階で、二学年ごとに指導内容を整理している。ということは、奇数学年のうちに、指導すべき内容のあらかたは、ある程度の指導を済ませているはずだ。それならば、二学年ごとに指導内容をまとめて示している教科においては、偶数学年でその複合的な活用を図った単元に再構成した上で、余剰時数の消化を極力控え、その分を算数や理科など、教科書の順序に沿って指導する必要がある系統性の高い教科に譲ることができるだろう。

さらに言えば、国語は、同じ資質・能力を繰り返し活用しながら発展的に学んでいく要素が強い教科である。体育、図工、美術、音楽でも同様だろう。ところが、教師が子どもを前に張り切ってしまうことの悪癖はここにも表れており、年度の初めと終わりで、何度も同じ内容を同じテンションで、同じだけの手間暇をかけて指導してしまいがちだ。春先にある資質・能力の獲得に要した時間が、秋や冬になっても同等の時間数を要するとは考えられない。仮にちょっと忘れていたことも、少し待ってやれば思い出すものだ。慣れから忘れてしまうこともあるだろうが、活用を図る際に一言指摘するだけで済む。そういう実態を十把一絡げに「子どもはすぐに忘れるから、いちいち丁寧に指導しなければ」と判断してしまう教師があまりにも多い。しかし、それは教えたい自分の性分を都合よく糊塗し、指導者としての欲望に正直になってしまっただけ。ただの自己満足である。自分がかつてそうだったから、これはそんなに外れていないだろうと思う。

教育課程編成の工夫に、ICTの活用に関する条件整備が進んでいれば、なおさら子どもの学びは加速度が高まるのであるが、悲しいことに自分の管轄区は、国内で一二を争う後進ぶりである。このことは、数年前の国の調査からも明らかとなった。国は昨年度来、ギガスクール構想を打ち出し、ICT後進国であるとのレッテルから脱却せんと莫大な予算を配分する方向に舵を切った。オリンピックを間近に控え、プログラミング教育やらギガスクールやらと急ピッチで先進性を高めようとしている。世知辛いものを感じなくもないが、国際関係というものはそういうものなのだろうか。

このギガスクール構想については、予算配当を希望する自治体に提示した申請期限が、告知された段階で残り一か月を切っていたことから、何かと紛糾した話題であった。それでも、あまり文句も言わず、子どもたちのためになんとかできないかと不眠不休で申請手続きの準備をし、どうにか予算執行に漕ぎ着けた自治体もある。ところが、好事魔多しというか、ある程度予測された落とし穴はここにもあった。各市町村の目下の悩みは、設備維持の予算がないことだという。このことについては国が支援するという話は今のところ聞いていない。維持費の予算化が難しい見通しであることを理由に、申請に踏み切れなかった市町村も少なくない。

ここ数年で、英語授業を促進するための措定として、電子黒板はよく目にするようになった。一方で、デジタル教科書はまだ活用事例を見た試しがない。zoomなどによるオンライン授業などは、大学や一部の高校で実施されているようだが、小・中学校では比較的に環境が良い附属校ですら試行してみた上で断念したらしい。多くは、機材の不足、回線の脆弱さ、家庭のオンライン環境の格差によるものだということも聞き及んでいる。

しかし、一番の理由は、一度壊したらもう直せない、使えなくなるという恐怖心から、導入された機材を過度に保護する傾向があることではないだろうか。先生方がそれを使って遊んでみる余裕がないので、子どもにも遊ばせてやれずにいる。ちょっとくらい壊してもすぐ直すから、遊んで使いながら覚えましょうと大盤振る舞いするほどの予算もないのが、片田舎の市町村の実態である。この点においては、全て金の問題なわけだ。

子どもは、遊んでいるうちに、すぐに使い慣れるものだ、とICTに詳しい先輩教師が語っていた。プログラミングのアプリをなんの説明もなく預けて15分もすると、授業者も想定していなかった使い方を発見する子どもが後を絶たないので驚いた、とその先輩は語っていた。もっと子どもを信じるべきだと。

子どもは、我々が思っている以上に強く、たくましいのだ。

時数の確保にしても、ICTの活用にしても、大人がどれだけ子どもを信じて任せられるか、という問題が浮き彫りになってくるのだが、その背景に、金銭的な事情が厳然としてあることは、なんともできないやるせなさを感じる。

一方で、もちろん子どもゆえの弱さを感じる問題もある。不審者対応だ。学校再開から3週間で、昨年の4月から5月末までの2か月間の発生数の倍以上のペースで不審者事案が発生している。長い巣篭もりの間に溜め込んだ欲望を、この3週間で我慢しきれずに吐き出そうとしているようだ。病んだ大人たちの病理は、かくも正直なものかと驚いている。子どもたちとともに、大人の病理も野に放たれた。声かけや追尾が中心で、まだ大きな事件に発展したものは皆無だが、気になるのは、しばらくそういう危険に晒されていなかった子どもたちが、近隣の店舗に駆け込んで助けを求めたりすることができず、とにかく家路を急いでしまうことだ。その結果、自宅の場所を知られてしまっていることが今後の懸念材料である。

早速、自分の職場の生徒指導担当が、注意喚起のリーフレットを作成し、来週早々に管轄区の学校に配布することにした。その中でも、危険を感じたらまず近くのお店に助けを求めて駆け込むよう、指示を徹底してほしい旨を示した。長い臨時休業中、子どもたちにとっては家庭がとても居心地がよく、自分が最も安心できる場所になっていたということが、ある意味あだになっている。これから開校を迎える地域の子どもたちが、こうした危険に晒されないことを願うのみである。

子どもは強くて弱い。大人は弱くて強い。そんな当たり前のことを、今更ながら実感した3週間であった。

つながりにくくて煩悩だらけの毎日の中で

自分が暮らす地域は、明日5月7日から学校の教育活動を実質上再開するところが多い。現場の先生方は、どのようなテンションで子どもたちを迎え入れたらよいか戸惑いはないだろうか。子どもたちはどうだろう。長い長い登校の必要がない期間、自由を謳歌したのか、いつもはできないことを存分にできたのか、友達と会えない寂しさに知らず知らずストレスを感じどこかに八つ当たり先を見出したりしたのか、家に独りでいる時に泥棒が入ってきたらどうしようと不安感に苛まれていたのか。そういう詮無いことばかり考えていた。

ふとした時に思い起こすのは、通常の教育活動の実施期間においても、登校できなかった、そして今も登校できていない子どもたちのことである。

業務上、いろいろな状況の中で、学校に足が向かない子どもたちに関する報告書を読む。顔写真が添付されている場合もある。カメラの前でやや緊張気味の無表情な写真を見ながら、その子が教室や家の中で示す喜怒哀楽を想像することもある。

彼らは、ウイルス感染症拡大の予防という目的で自分のクラスメートが登校できなくなっている状況を、どのように捉えているのだろうか、と思い巡らす。

思いは巡らすが、自分がする仕事は、報告書に目を通し、ファイルに綴じ、担当者と所感を交わし、直接関係している機関との連携や今後の方針を確認するだけだ。とてつもなく間接的で、無力で、それ以上でもそれ以下でもない仕事だ。

現場でこの子どもたちに直接関わっている先生方や関係機関の方々は、自分とは質の違う無力感に肩を落としていないだろうか、と感じる報告書を読むこともある。せめて一緒に悩みたいとも思うけれど、立場上話をややこしくするだけで、それすらできないのが、自分の職業上の特徴だ。常にステルスでなければならないのだ。

こういうところで長年仕事をしていると、自分と学校にいる子どもたちがつながっているという感覚を失いがちになる。このブログを始めたきっかけも、自分が学校現場を離れることになった時に、当事者意識を失うことなく、しかし客観性を高めた上でこれまでの仕事を振り返ることで、また現場に戻る時の自分の足場をより堅牢なものにするためだった。

幸いにしてこの仕事の唯一の救いとなったのは、年間で40回前後、学校を訪問する機会があったことである。その際は、できるだけ先生と子どもたちとの間に流れる固有の文脈を見取りながら、自分が現場にいた頃の仕事の記憶と、学習指導要領やその時々の国や県の施策とを結び付けて考え、分析するよう心掛けてきた。それが、自分ができる唯一の研修であって、自分と学校にいる子どもたちとがつながっているという実感を保持する機会だったからだ。その一端をこのブログに書き記すことで、自分が見てきたもの、感じてきたことがなんであったのか、その正体を突き詰めるようなリフレクションをしてきたつもりだ。

今年度から主任職となったため、現場に足を運ぶ機会が失われることとなった。管理職であるため、研修事業の企画運営すら必要なくなり、同僚が提案することに助言したり、他の部署との連絡調整を図ったりする仕事ばかりだ。もう、自分がしていることのどこがどのように子どもとつながっているのか、そんな想像力すら保持するのが難しくなってきた。

そのせいか、学校が臨時休業中のこの期間は、本当にたくさんのことが脳裏をよぎった。分をわきまえずに発信していることも多かったと思う。いろいろな意味合いで「教育行政の人間のくせに」と思われた方もいただろう。

そんな忸怩たる思いでいたら、昨日ふと、かつて様々な面でご指導ご助言をいただいた方の中で、斎藤喜博校長のもとで長年教育実践に携わってきたA先生から、「指導主事も実践者ですよ」と慰めと激励の一筆を年賀状に添えていただいたことを思い出した。

自分はどんな「実践者」だったのだろう。そんな思いから、過去の投稿を全て読み直した。

全ての投稿と、それに対する様々なコメント、自分の応答も全部読んだ。そうしたら、無性に教材研究がしたくなった。もう現場にいた時のようにはできないかもしれないけれど、でも少しでも誠実に教科書の教材を丁寧に読もうという気持ちになった。たぶん、自分が子どもたちとつながる媒介として最も手っ取り早く、それでいて最も質の高い素材が、教科書だったんだろうな、と思う。

それでどうにか、自分の「分」もようやく取り戻した感じにはなったかな、と思ったということを書き記したくてパソコンに向かったら、今回が108回目の投稿である。見事に煩悩の数だ。あああ、煩悩だらけの毎日だったな。

20年以上前に教えた子が、新型コロナウイルス感染症の子どもが収容されている隔離病棟で奮闘している医師の一人として、家庭向けの談話を公開しているネット記事を見つけた。

我が家に配達された新聞の社会面では、非常事態宣言下で悩む市井の声を紹介した小さな記事の執筆を担当した記者が、10数年前の教え子であった。

みんな、どこかで子どもと直接、間接につながって頑張っているのだな。

明日の朝は、校内にこだまする子どもたちの声と、こだまに交じることができずにいる子どもたちの心の声と、それを迎え入れている先生と、迎え入れることができずに自宅で苦しんでいる先生の心の声も全てを思いながら、つながりの感じにくい日常の業務に向かおうと思う。それらも、教科書を読むようにできるだけ誠実にこなしていくしかない。

小学校国語の新教科書を読んで 〜2年上編〜

1年編を投稿してから随分と時間が過ぎた。すでに各学校では一学年分はひと通り実践を経たことになる。臨時休校が続く中、校内人事で新たに担当することになった学年の教材を今一度読み直し、学校再開に向けた地場固めをしている先生方もいらっしゃるかと思う。

自分の地域で採択された光村図書2年の教科書は、編集の意図がよく見える内容だったと感じた。特に、言語活動に対する緻密な配慮が多かったと感じる。ただ、あまりにメモした分量が多過ぎて、投稿を渋っているうちに半年が過ぎてしまった。特に印象的なものだけに厳選し、上下巻を分けた上で(それでも長くなるとは思うが)、機会を逸していた2年のことだけは、記録に残しておこうと思う。

【2年上】

『ふきのとう』

  • 継続。音読に最適な教材である。発話者が誰か、という一年生の単元で学習した内容を継続しつつ、「おどる」などの比喩や、「ささやく」などの設定と関連が深い述語について、音読を通して解釈を深めることができる。
  • 「あやまる」のはなぜか、何をあやまっているのか、などの発問を通して、一年生で学習した「くちばし」から「どうぶつの赤ちゃん」に至る因果関係についての理解を深めることも大切だ。
  • ICTに注力を始めた本社独自の工夫として、QRコードにスマホをかざすと、作者が解説や朗読をしている動画が閲覧できることにも注目したい。授業のどのような文脈の中で取り扱うのかについて、授業者の意図や力量が問われるところだ。

『きょうの できごと』

  • 初出。平成27年度版の同じ位置付けをしている単元『今週の ニュース』と比較してみた。『今週のー』では、ノートに書きためた印象的な出来事から、学級や学年に知らせたい内容を選択し、カードなどに書き写して掲示し、友達からの感想をもらう、というコミュニケーションスキルとしての書く活動であった。
  • 平成31年度版の『きょうのー』は、日記の学習であり、コミュニケーション色は排除されている。まずは書き手の態度として、「した・見た・言った・思った、…」などの区別をして書く技能の伸長を優先したのではないかと捉えた。ちなみに下巻の終わりまでくまなく調べたが、書き言葉による双方向的な活動を取り入れた単元は見当たらなかった。
  • 音声言語による伝え合いに細心の配慮が必要な時代になった今、書き言葉による双方向的な伝え合いのスキルは、低学年と言えども重要度が増した。27年度版の要素を取り入れてみることも一つの手立てである。

『ともだちをさがそう』

  • 同じねらいで掲載されていた『ともこさんは どこかな』の改訂版。平成27年版の『ともこさんは…』は、大事なことを落とさず正確に話すことに主眼が置かれた単元構成である。
  • 平成31年版は、概要を描写して話す段階、迷子を探すアナウンスの大切なところを落とさず聞く段階、最後に大事なことを落とさずに正確に話す段階というように、聞くことをメインにした単元にリニューアルされた。伝達を重視した前回版と異なり、双方向的な活動をイメージした単元デザインであることも特徴だ。(おそらくは、『きょうの できごと』で双方向性を排除したのは、こちらとの住み分けを測ったためではないだろうか)描写力を身に付けるという、今後重視される表現力の育成も保障した上で、聞く力の育成、ゲームによる主体性や創造性、そして対話的な学びによる授業改善の意識の徹底と、このわずか数頁の単元デザインを大きく改善した意味は大きい。
  • 掲載箇所が『たんぽぽのちえ』よりも前にされたことにより、恐らくは取り扱いも早まるだろう。続く『たんぽぽのちえ』を用いた言語活動における描写力、説明力にも関連を図った指導が可能になる。

『たんぽぽの ちえ』

  • 継続。「じゅんじょに気をつけて読もう」というねらいが扉に示されている。これは一年下の『どうぶつの赤ちゃん』の系統であるが、先述したように、因果関係を理解するという系統で貫かれた一年の説明的文章とは、若干主旨が異なる要素もある。それは、挿絵と本文の関係である。
  • 「花はどこですか。43頁の挿絵の花を全部囲みましょう」と問うと、三つの花を囲むことができる子が多いが、「<二、三日たつと、その花はしぼんで…>と書いていますね。<その花>とは43頁の絵の中でどれを指しますか」と問うと、こんどはばらける。中には、最初の問いで囲んでいなかった右下のつぼみを囲む子どももいる。<だんだん黒っぽい色>という描写に引きずられるのだ。同様に、それ以降の頁でも、<じく><つぼみ><たね><らっかさん>などを正しく挿絵と対応させて読む力を付けるのに格好の教材である。この能力は、のちに、解釈を図に表して視覚化する学習にも転化していく。視覚化した解釈のずれや隔たりは、授業を子ども中心に展開する「教材」となりうる。その端緒を開く教材として、今回の改訂に残ったことを祝いたい。
  • ところで、「たんぽぽのちえがいくつあるかを、かんがえながら音読しましょう」は、かつて大いに紛糾した課題として記憶に残っている。子どもによってカウント数は異なっていたからだ。まず、冒頭の花が咲くことをちえに含めるか含めないかで揉める。花がしおれ、じくがぐったりと地面に倒れることも、ちえを働かせるための準備段階と捉えてちえにカウントしない子どももいる。子どもたちの多くは、らっかさんのようにして綿毛を飛ばすことだけをちえと考える。湿り気の多い日や雨降りの日に綿毛がすぼむことも、カウントしない子がいる。
  • かつて、自分でちえをはたかせているのであれば、「すぼんで」は「すぼめて」であるはずだと主張した子がいて驚かされた。自動詞と他動詞の区別があることにうすうす気づいている子が、この発達の段階ですでにいるということだ。国語科の授業が、言葉の学習であるということを、つくづく感じた経験だった。これを、「がくしゅう」に示されたとおり「6つ」だね、と一方的に決め付けてしまうよりは、子どもの考えに耳を傾け、「当たり前」を覆すほうがずっと愉快痛快な学びとなるだろう。

『かんさつ名人になろう』

  • 継続。「がくしゅうの すすめ方」に若干の、しかし看過できない変化を認めることができる。①かんさつするものをきめて、ていねいにかんさつする。②かんさつしたことをきろくする文しょうを書く。③書いた文しょうを読みあう。というのが、平成27年版の進め方だった。
  • 今回の改訂では、①と②の間に、「②見つけたことや気づいたことを、ともだちと話す」という段階が加わり、四段階で示されている。これは、非常に重要な改善点だ。
  • まず、これまで「一単元一領域」という前々回の学習指導要領で徹底を図られた単元構想を、現行学習指導要領で頑なに遵守してきた教員が、意識を変える機会となる。
  • 観察記録を書く上で大切な描写に必要な語彙(形容詞や副詞など)を、話し言葉のやりとりの中で自覚させることも可能になるだろう。
  • なおかつ、伝え合ううちに見解の相違が明らかになり、植物にも個体の違いから生ずる若干の差異を認め、人間と同じ個性を感じるようになることから、個性的な表現の獲得にもつながる。
  • 更には、長さや数、前日からの変化などに関わる客観的な表現の力を育てる一方で、成長の様子を擬人化して語る情緒的な表現の力を育成する上での有効になるなど、話し言葉による伝え合いが、書き言葉に及ぼす影響力を最大限に高めることにつながるからだ。
  • このことは、まず書かせようとする教師の意識を変えるきっかけにもなる。授業者の教えやすさを優先し、授業した感が得られる、期待する反応を目視しやすいなどの理由から、書き言葉優先の指導を続けてきたことが、どれだけ多くの子どもたちを苦しめてきたことか。
  • 話し言葉による伝え合いを交えることは、書き言葉に好影響をもたらす。表現力のみならず、ものの見方・考え方や探究的な学びの動機付けにも関わっていく。そうしたことに対する授業者の意識向上という面からも、この小さな改訂は、大きな意味をもっている。

『スイミー』

  • 継続。教育実習で一人で一単元任せられ、悪戦苦闘した教材として思い出深い。学生時代の自分もそうだったのだが、いまでも研究授業でよく目にする道徳的な扱い方には、国語科の特質とは何だろうと考えさせられてしまう。子どもたちには「みんなで力を合わせることが大事だとわかりました」「希望を失わず努力することが大切だと思います」というまとめをさせたら負けだと思っている(誰と闘っているんだ…)。
  • これも「がくしゅう」に大きな変化が見られる。「お話のながれをたしかめるれい」として表のような様式が示されている点は同じで、低学年の発達の段階にはあまり必要感を感じさせない手立てだと思うのだが、一点異なるのは、<じんぶつがしたことやできごとをちゅうしんに、お話をみじかくまとめたものを、あらすじといいます。>という解説が加えられたことだ。
  • これは、中学年につながる要約の指導にも関わる。従来の要約指導については、「大事な言葉をキーワードと言います。キーワードを三つ選びましょう。選んだキーワードをつなげて一文にしましょう。」という指導が主流である。
  • この指導には、かねてから大いに問題があると考えていた。なぜなら、まず「大事な言葉」というキーワードの定義は、相対的な価値観をはらむものであるので、絶対的な正解がないからだ。スイミーを勇敢な魚だと解釈している子どもと、ちえのある魚だと解釈している子どもで、物語から抜き出すキーワードは異なるだろう。そして、どちらが正解とは言えないのだ。しかも、どれを抜こうかと迷うほど、たくさんのキーワードが林立し、取捨選択できない可能性が高い。これまでたくさんの要約指導が、このような高度な思考を子どもたちに強いてきた。
  • しかし、この「がくしゅう」では、<どんなじんぶつですか。>と人物像を特定する段階、そして<どんなできごとがおこりましたか。><なにをしましたか。>と、「事件」と「行動」をシンプルに押さえる段階が示されている。この一連の流れで重視されるのは、「主語(だれが、なにが)」と「述語(なにをした、どんなだ)」を明確にする技能である。
  • ここから分かるのは、要約の指導というのは、キーワードの抽出という相対的で高度な思考の指導ではなく、まずシンプルに、主語と述語で、事件や行動を確認することが適切だということだ。そして、人物の行動について要約する場合、行動のどこに着目するかは、その人物をどのような人物として捉えているかということに規定される。それならば、抜き出す述語や、人物像を示すような形容詞、副詞などの修飾語も明確になるだろう。
  • このような意味で、「がくしゅう」に示した「あらすじ」の指導モデルは、要約の初期の指導として大変優れていると感じた。今回の改訂における肝は、学びの手びきとしての「がくしゅう」欄の、小さな、しかし重要な改良にあるようだ。
  • ちなみに、<たとえをあらわすことば>の追加についても、この改良の一環として触れておく必要がある。「ーような」「ーみたいな」は、きょうだいたちを大きなまぐろに食べられて、失意のうちに海底をさまよう場面に多用される表現だ。これは、比喩の初期の指導として大変重要である。
  • 比喩の用法や効果、定義等について取り扱うのは高学年であるが、生活科のねらいにもあるように、例える、見立てるなどの思考は、すでに低学年の発達の段階、もっと言えば幼児期の遊びの段階から、子どもたちにとって慣れ親しんできた指導内容であることは間違いない。であれば、この段階で、『スイミー』の学習を通していったん取り扱っておくのはやぶさかでない。
  • 比喩の引き合いに出されたものと実際のものとの違いと共通点の理解、なぜそれに例えたかという取捨選択の理由や背景、他のものに例えた場合との印象の違い、<見たこともない魚たち。見えない糸でひっぱられている。>の難解さと隠喩の理解、この場面における比喩の多用とのちの<考えた>の反復表現との関わりなど、奥深い言葉の世界を満喫する要素を潤沢に内包している。
  • 『スイミー』では、ここだけ取り上げて数時間、動作化なども交えた授業をしたら、それだけでも濃密な時間を過すことができる。このような授業構想を後押しする「がくしゅう」になったことが、何にも増して素晴らしい。

小単元「じょうほう」

  • 「メモを とる とき」という見開き2頁の小単元。新学習指導要領の〔知識及び技能〕に新設された「情報の扱い方」に対応したものと思われる。
  • 生活科の「まちたんけん」関連の単元と関連付けた内容だ。見たものを単語で列記することや、必要に応じてイラストを描くことなどを奨励している。
  • 気になったのは、見たものをメモしても、後に振り返ったとき、なぜそれを心に留めたのか、つまりそのときの感情を振り返ることができない子どもが多いことだ。やはり、一言でよいから「かわいかった」「大きくてびっくりした」など、感情に関わる記載を残すようにする習慣は、語彙の少ないこの時期であっても必要でないか。
  • 場合によっては、連想した似ているものをメモしたり、その時の友だちや出会った人の言葉が一言添えてあったりと、耳、触感など五感を働かせた情報も残す習慣が必要だ。生活科では、耳や手の記号を頭に添えて、何に関連したメモであるかも含めて残すように指導を工夫している。言葉にならないときはイラストを活用するのも既に生活科の指導事例にある。
  • メモをとりっぱなしにせず、どのように活用するか、ということも含めて指導したい。

「あったらいいな、こんなもの」

  • 下巻から上巻に掲載位置を変えて継続。新学習指導要領の趣旨を踏まえて双方向性の高い単元がこの前後に配置されている。次の「読むこと」の単元にも同様のやりとりがあることから、その準備段階としてもここに配置したほうがよいという判断だったのだろう。
  • 平成27年版のドラえもんがイラストから消えた。これが吉と出るか凶と出るかは判断を待ちたい。プラスに受け止めるとすれば、ドラえもんの道具に左右されない自由な発想が生まれやすくなる。マイナス面を考えれば、発想・着想に困難がある子どもが、途方に暮れるかもしれない。
  • もう一点、平成27年版と異なるのは、友だちとのやりとりを通して考えを詳しくするということが一層強調されている点だ。もったいないと思うのは、「ひとつ質問を受けるごとに、修正を加えて即興で話し直すことに挑戦してみよう」というような即興性と試行錯誤の保障がないことだ。
  • 質疑応答をひと通り終った頃には、初めの方のやりとりは記憶のかなたにある。それが低学年というものだ。いや、大人でも二つ以上の質問や指摘を受けると、対応に苦しくなるはずだ。
  • 「話すこと・聞くこと」における即興性と試行錯誤の保障は、問題解決的な学びにおいて非常に重要な要素となる。このことに関して、低学年のうちから鍛えておく必要がある。
  • 余談だが、この単元から分かち書きが解消されている。2年生の夏休み明けというのを、子どもの発達の一つの節目と考えているのだろうか。いままであまり気にしていなかったところだ。

『ミリーのすてきなぼうし』

  • 継続。平成27年版から登場した新しめの教材だが、これはとても好きな教材である。挿絵に遊べる余地がたくさんあり、子どもがお話しをつくるなど、参加型の読み聞かせができることや、意外と深い哲学を、押しつけがましさを排除してそっと忍ばせてあること、出てくる人物が魅力的であることなど、授業のしがいがある。
  • だからこそ、平成27年度版にあったが今回の改訂で消えた「お話クイズをしよう」が、これとセットになって生きてくるはずだった。教材の特性と言語活動との相性は、絶対に重要である。

「たいわのれんしゅう」

  • 「ことばでみちあんない」という小単元である。認知学的に様々な資質・能力を必要とするのが道案内の特徴である。二次元の地図を見て、三次元的に状況を想像する、視点を置く場所を変えて異なる側面から対象を見る、方角を示したり目印を示したり、程度や規模を伝えたりする語彙を選ぶなど、実はかなりたくさんの資質・能力を、総合的に用いている。
  • 『ケーキの切れない非行少年たち』(宮口幸治著、新潮新書、2019年)によると、問題行動は小学校2年生までに、その芽を見出すことができ、この段階で、知能検査で「IQがやや低いが特別な支援が必要とまでは言えない程度」と目されるIQ80以上100以下の子どもの中には、こうした認知面での困り感を解消されないまま大きくなり、図らずも非行に走る場合があるという。
  • もし、自分の学級にそのような子どもがいた場合、この道案内は相当に困難を強いるであろう単元だ。
  • この解決策の一つとして、近年脚光を浴びているのがコグトレ(Cognitive ○○ Training)である。○○には、不器用さを改善する「身体面」、覚える、見つける、写す、数える、想像するといった基礎学力を支える土台づくりをする「学習面」、感情、対人マナー、危機予知、問題解決などのスキルの向上を図る「社会面」の三種が入る。
  • これと関連の深い低学年の指導が思い出される。詳細は、2014年1月26日の投稿「手と目を育てる漢字学習」を参照していただきたい。

これで上巻の分がやっと終わりである。下巻については、もっと長いメモが手元に残っている。でも、早いうちに整理しておこう。