子どもがしたいとおり、言ったとおりにしてみる

ある学校の全学級の授業を一巡していると、ふと「こうすればいいのにな」と思うのだけれど、言えずに帰ってくることがある。

学級、先生、子どもたちは、様々な背景を背負っている。一概に言えないことが多いからだ。挙句、言えずに帰ってからも心の中でくすぶり続け、後々思い返す羽目になる。

例えば、ある4年生のクラスで3桁÷2桁の割り算をしていた場面。

商を立て、除数と掛けて被除数の下に書いたところまでを全員で確認した後から、授業者の若い先生は、ある男の子に問い掛けた。

「153ー144だね。割り切れなかったね。いくら余る?」

その子は算数が苦手な子らしく、先生の問い掛けにこう答えた?

「え…!?指使っていい?」

その子のなんのてらいもない反応に、微笑ましい気持ちになりながら、さて、この若い先生はなんと答えるだろうとその反応を待った。

少しためらったのち、その先生は、桁数が大きいので指を使うことは難しいこと、もう4年生になったのだから、そろそろ今日はめあてがあまりのある計算なのだから、既習の繰り下がりのある引き算くらいはに挑戦して見る必要があることなどを立て続けに説いて聞かせた。

そのときの子どもの表情は、なんとも言えない、ぽかんとしたものだった。

おそらくは、普段そのような説諭をされたことはなかったのではないかと思う。我々がいかにも監査のような風体で教室に、やや恭しい態度を示して入るので、先生も子どもも、構えずにはいられない。(もちろんそのつもりはない。教室に入って来られる側から見ればという意味である。)

いつもとは違う緊張感の中で、それでもいつもと同じ反応を思わずしたら、いつもと違うお説教が返ってきた。みんな、どうしてしまったのだろう、という顔である。それと共に、その話は難しくて自分にはどうも解りにくいという顔でもあったように思う。全てがよそゆきなのだ。

こういうとき、自分が現場にいた時は、「どうぞ」と言っていた。そして、その子が指で数えている間、他の子どもたちには、その判断がどうなのか、一緒にやってみてあとで感想を述べるように告げていた。

もちろん、学力の高い子は、そんなの無駄だと言う。なぜそんなことに付き合わされるのだとも言っていた。けれど、その子が納得するようにそれが無駄な理由を説明してごらんと、自分のところに呼んでこっそりと説明させてみると、意外に大事なところが曖昧で、突っ込もうと思えばいくらでも論理の飛躍を指摘できる場合が多かった。

「本当にわかるっていうことは、指で数えている子が無駄だって納得させられる力が身についたときにいう言葉だよ」と不満を抱えていた子どもたちにもそれなりの挑戦心を持たせながら付き合わせていた。

「学び合い」を取り入れている教室では、このようなことが授業者主導で進めるまでもなく、子どもたちの間で頻繁に行われているのではないだろうか。

次に参観した1年生の教室では、前時の内容を振り返ったのち、本時で学習する教材文の一場面を全員で音読するところであった。

先生の指示で教科書を開く。背中を伸ばし、足の裏を床につけることができているかどうかという先生の注意喚起に応えて、居住まいを正す。

姿勢が整ったところで、先生は、全員が開いた教科書を点検して歩いた。皆が同じページを開いているかどうか確かめているらしい。

まず読ませたらどうだろうか、と思いながら見ていると、案の定、せーの、でみんなが違うところを音読し始めて戸惑っていた。

入室した段階で行われていた前時の確認の様子から、うすうす感じてはいた。物語の冒頭場面を概括するような言葉では教材文と一致させられず、どの場面のことを振り返っているのか分からない子どもがいるだろうな、と。

だから、子どもたちがてんでバラバラなところを音読し始めたとき、教科書を開いているところを一人一人点検した先生の手立ては、一人一人へのきめ細かな指導としてどこがずれているのか、そして、その先生が常日頃から似たような的を外したきめ細かさを発揮しているとしたら、子どもの成長にとって何が問題となるのかを考えさせられた。

この場合、指示の仕方を云々したり、点検の際の視点を云々する次元で助言をすることは、おそらく対処療法でしかなく、永続的な指導改善にはならないだろう。

「今日学習するところをみんなで音読してみよう」でよいのではないか。

そして、てんでバラバラな箇所を読んだときに、初めて子どもたちはこの時間に学びたいことはなんだったのかを自問するはずである。

「あなたはどうしてここから読んだのか教えてちょうだい」「あなたはどう考えていたの」

と決して責めるような口調にならないように配慮しながら、いかにもそのことに先生は関心があって、とても大事なことなんだよという態度で接することが、子どもの意識から出発することになり、子どもが主体的になっていくきっかけになるのではないか。

みな、それぞれ返ってくる理由が異なったとき、初めて「じゃあ、前は何がわかって、今日は何をすればいいのか改めて考えてみよう」と問えばいい。

そんなことは毎日やっていたら大変だろうから、学びの主体性を喚起したいある時期に、集中して行えばよい。

静岡の築地久子氏や青森の佐藤康子氏の教室では、このようなことが日常的に行われていたのではないだろうか。

日々の学級経営で余裕を失っている先生方が多いように思う。それとともに、失われていく片々の指導技術に想いを馳せる。それは、単に技術の喪失という問題ではなく、理念や哲学の問題であるようにも思う。

指摘できずに帰ってくるのは、ここまで述べた方法も、結局は自分が過ごしてきた学校文化の中で培われ続けた一つの在り方を具現したものであり、他の先生方が同じ学校文化の流れを歩んできたわけではないからだ。

「自分はこうしたよ」という体験談のかたちにして伝えたとしても、今では過去の栄光にすがった自慢話のように捉えられてしまう。

だから、「子どもの気付きを待ちましょう」「試行錯誤するときがあってもよいのではないでしょうか」「子どものすることを面白がるといいですよね」という方向性だけを示すことになる。

それが同じイメージで伝わっていないことを重々承知の上で、だ。

子どもがしたいとおりにしてみる、言ったとおりにしてみるという指導の背景にある理念が明確に伝わらない限りは、効果的な手立てとして共有されるには至らない。

ところが、この理念がうまく言葉で表現できないからやっかいだ。学校訪問も7年目を迎え、今年の訪問も残り少ない今になって、こんなことで悩んでいる。