授業づくりと学級づくりのはざまで(前編)

自分が暮らす地方では、臨時休校が明けて約三か月が経過しようとしている。

学校を訪問した同僚から伝え聞く口頭復命の中から、様々な学校の状況を窺い知ることができる。

例えば、「三密」の回避に関する対応では、「新しい生活様式」に、明るく楽しく子どもたちが順応できるようにする配慮が見られた。いくつかの学校では、手洗いの歌を独自に制作したり、流行歌の替歌でソーシャルディスタンスを奨励したりしている。一番笑ったのは、学年の感染防止キャッチフレーズが「断密」(だんみつ)。この学校には、昨年、あるテレビ取材で壇蜜さんが来校した。だからこそ通じるのだろう。

この「断密」校、とてもよく教職員の共通理解が図られているところがあり、感服させられた。訪問の約1週間前になると、訪問先の学校から教育計画の冊子を送付していただくことになっており、必ずその内容を熟読し、学校経営の重点や研究推進の方向性について予習した上で、実際の様子を見せていただいている。「断密」校の訪問計画は、他に類を見ないほど、学校経営や研究推進の重点が、全ての学年・学級経営案に反映され、発達の段階や子どもの実態に応じて目指すべきところが明確に示されていた。

そんなことは当たり前だろう、とおっしゃる方もいるのかもしれない。けれど、これまで数多くの学校の教育計画を拝読してきた中で、そのような学校は数えるほどしかなかった。中には、経営の重点が意識されていないことが、実際の授業の中でも露呈してしまっているケースも少なからず見てきた。たかが「紙上の空論」と侮るなかれ、である。校長のリーダーシップというものは、良くも悪くも一人一人の教員の姿となって露呈する。隠れたカリキュラムが機能するか否かは、学校の経営方針と切り離して考えることができないものであるはずだ。

さて、この「断密」校、教育計画の紙上にかなりの完成度で反映されているだけあって、全学級の授業を一巡させていただいた際にも、経営の重点である子どもの自己有用感や子ども同士の共感的人間関係の向上に繋がる手立てが、そこかしこに見え隠れしていた。県内でも有数の大規模校である。様々な個性を持った先生方と子ども達がいる。そんな状況の中では、たった一つの簡単なように思える提案すら共通理解を図るのが難しい。それが、やらされ感もそれほどなく、それぞれの教師の個性に応じた取り組み方が容認されていた。

こういうことを、カリキュラム・マネジメントの重要な要素として見ることも大切だろうと感じる。つまり、校長の経営方針が、隠れたカリキュラムレベルで、各学級担任や専科の教員、少人数加配の非常勤講師にまで浸透し、実践化されているかどうか、という指標である。

もう少し焦点化した言い方をすれば、どの学校にもある「目指す子ども像」を具現する手立てが、具体的なかたちで各教員によって取り組まれているかどうか、ということである。「目指す子ども像」がお題目になっていたり、子どもの実態と乖離していたりするところでは、どんなに単元配列や教科等横断的な学習過程の工夫をしても無駄だろうということだ。

さらに言うなら、学校経営や研究推進の重点を反映した隠れたカリキュラムが、授業づくりのレベルにおいても具現化されていなかったら、全てが水泡に帰してしまう。

かつて、「学級経営が素晴らしい」と校長から絶賛された教師を何人も見てきた。その先生方の大半は、授業も非常に協同的かつ探究的で、質が高かった。一方で、同じように賞賛されている割に、なんだか子どもたちの様子が変だな、と思う学級もあった。教師のコントロールが効いているのは分かるのだが、子どもたちにそのことが見透かされている、あるいは、そのコントロールが強固であるがゆえに、子どもたちがかなり諦めたり割り切ってしまったりしている学級である。

後者のような学級でよく目にする授業の光景は、次のようなものだ。

・妙に子ども達の動きがなく、徹頭徹尾、背筋を伸ばして私語を一切発しない。

・指名されると「はいっ」と力強く返事をするが、発言はどこかマニュアル化されていて、その内容について深掘りする教師の意識もない。子どもは発言が終わって着席すると、周囲の数人と目配せをして微笑み合う。(自分には、その微笑みが「ね、これくらいでいいでしょ?ちょろいちょろい」という意味に感じられてしまう)

・教師の説明が始まると、そんなに長くない話であるにも関わらず、ほぼ全ての子どもが下を向く。(自分にはやり過ごしているように感じた)

・授業の決着は全て教師がつける。そのことに不満を訴える子どもは一人もいない。

・教師が設定したルールからはみ出す子ども、そのルールを頻繁に冒してしまううっかり者の子ども、特別な教育的ニーズがあるがゆえにそのルールの遵守が困難な子どもは、あらゆる学習活動において「みそっかす」のような特別ルールや別メニューを与えられて庇護される。

そしてこれが極め付けなのは、

・休み時間や放課後になると豹変する。(廊下を絶叫して走りすぎる、特別教室など教員の目の届きにくいところにたむろする、注意したりたしなめたりすると開き直った態度になる、など)

このような症状が、自分には気になるのだが、全く意に介さない教員や管理職もいて、上記のような学級の担任を称して「学級経営のプロフェッショナルだ!」と賞賛していた。正直、開いた口が塞がらなかった。この管理職の言う「プロフェッショナル」は、「問題を封じ込めることに長けた教師」ということのようだ。

問題を封じ込めようとする学校経営や学級経営、授業づくりの一方で、もう一つ気になる傾向がある。

関係機関との連携と称した、安易な依存である。

特別な支援を必要とする子どもや、そこまでではないまでも、学級担任が接し方に困難を感じるような特性のある子どもについて、スクールソーシャルワーカーやスクールカウンセラー、特別支援教育担当者への相談依頼が後を絶たない。ほぼ毎日、このことに関する依頼の電話がかかってくる。今年はコロナ禍の影響からか、昨年度の3倍のペースである。

もちろん深刻な事案もあるので、全てを安易だと断定するつもりはない。

ただ、もう少し学校で、学年や学級で何とかできたのではないだろうか、と思える事案が少なくないことも事実だ。

一体、学校で何が起きているのだろうか。(次回に続く)

最も都合の悪い反応がおいしい

数週前、初任者である長男が珍しく授業の相談をもちかけてきた。

どうやら指導教員に算数の授業を観てもらう日が近いらしい。

課題の設定も、学習活動の構想も、そんなに悪くない。いや、正直なところ、父親の贔屓目であることを差し引いても、よい授業プランだと感じた。

親バカとは思いながらそのことは率直に伝えつつ、一つくらいなにか役立つことを、と考えてとっさに口をついて出たのが、「自分にとって一番都合の悪い反応を想定して、そのような反応をした子にも学びが成立するようにプランニングしたらいいよ。」という言葉だった。

言ってからハッとしたのは、最近このことを学校への助言でも使う頻度が上がったな、ということだ。この発言、最初に使ったのはいつだったろうかと、記憶の意図を手繰った。

いまから10年も前のこと、小学校1年生の説明的文章の教材『くちばし』(光村図書)の授業について、相談を持ちかけられた。授業者は、20代後半だが既に低学年の指導が板についた女性教諭だった。当時彼女は、30代半ばの学年主任と組まされ、「よく主任の指導に学ぶように」と言われていたが、私からしてみれば、力で押さえつけることの多い学年主任よりも、声を荒げることもなく、子どもの微妙な表情の変化や仕草の違いにアンテナを高くして、あるべき方向へとさりげなく誘う彼女の力量の高さに学ぶことの方が多かった。

さて、この女性教諭が困っていたのは、『くちばし」という教材は、小学校で初めて出会う説明的文章教材だから、「問いの文と答えの文との関係」をしっかりと教えたいという。しかし、授業プランは、「このお話を書いた人は、なにを知りたいと思っていますか」「その答えはどこに書いていますか」という発問が、各段落を読み進めるごとに繰り返される、ごく単調なものだった。これでは子どもは楽しくない。(これを、わかる授業が成立するからという理由で「楽しいはずだ」と言って譲らない教員が、思ったよりもベテランに多いことを悲しく感じる昨今であることを付け加えておく)

そこで、いろいろとその女性教諭が考えていることや、クラスの子どもの実態を聞き取りながら、図と言葉の往還を通して、少しでも子どもが考える授業を成立させ、言葉の微妙なニュアンスの違いにアンテナを働かせる授業にしましょうということになった。いまでいう、「言葉による見方・考え方を働かせて課題を解決する」授業である。おおよそ、次のような手順であった。

1 くちばしだけが欠落した鳥の顔の絵を提示する。

2 教師がその絵に誤ったくちばしの図を描き加え、子どもたちに正誤を問う。

3 誤りを指摘する子どもたちの表現をつぶさに聞きとり、それにさらに誤った解釈の図の修正案を提示する。

4 しびれを切らした子どもたちが「自分に書かせろ」と言い出すのを待つ。

5 子どもに描かせた図(正しいものから正確でないものまで全て含む)と比べ、どこが違うのか、教師の描いた図で良いのではないかと議論を仕掛ける。

6 ここで初めて、どんなくちばしだったらよいのかな?という問いを自覚させ、その問いが、教材文にも筆者の言葉として明示されていることに気づかせる。(筆者と子どもがここで同じ目線に立つことになる)

7 正しいくちばしの図を描くために、教材文に立ち返り、何のために、どのようなくちばしがついているのかという問いを持って読む。

8 くちばしと食べものの特徴との因果関係に気付き、正しいくちばしの形状と、その表現の仕方を確認する。(例:「ほそながくのびた」と「するどくとがった」の違いなども、このときに確認する)

9 まとめとして、正しいくちばしの図を描き、食べるものの特徴との関係を捉えて、隣の席の友達に説明する。

おおむねこのような授業プランであった。2の段階では、くちばしではなく「くちびる」を描いて子どもたちを笑わせながらも、くちばしとくちびるの違いを言わせたりして遊ぶアイディアも出るなど、授業者も「国語ってこういう指導もできるんですね」とノリノリだった。

とりわけこの女性教諭にとって新鮮だったのは、5の学習場面で子どもが正しい図を描くことができない場合の対応だった。「間違いを利用するなんて、考えたこともありませんでした。どのようにして訂正するか、指導の仕方を一生懸命考えていたのに、<これでいいよね?>なんて提示する勇気はありませんでした。」という感想を話していたのが印象的だった。これは、女性教諭が5の段階でも正しい図を描けない子が多いはずだという不安を口にしたことがきっかけで、私が「間違えが出る方が都合が良いでしょう。だって、それが問いを持つことに繋がるんだから」と答えことに端を発している。

「子どもたちもこれなら喜んで間違えるし、教材文を進んで読もうするはずです」と、授業者自身が授業を楽しみにするようになった。

さて、指導案提出の数日前、この女性教諭から不思議な相談を受けた。

敎育行政のとある機関が、全県規模のネットワーク会議システムを利用して、若い教員の授業の相談に乗るという企画を立ち上げた。当時の管理職が、これを積極的に利用するように働きかけられたことから、ちょうど指導案の締め切りが近づいているこの女性教諭に、勉強の機会を与えるとともに、指導案の最終仕上げをするのに都合が良いということで、このシステムを利用してとある指導主事の助言を仰いだ。

「不思議な相談」のきっかけは、この指導主事から受けた「助言」に、授業者である女性教諭は戸惑ったことが原因だった。

「子どもがくちばしの図を描けないわけがない」「図を描く活動に夢中になったら子どもは文章なんて読もうとしない」「<ほそながい>と<するどい>の違いを説明できるわけがない」などなど、ほぼ全否定だったというのだ。しまいには、この女性教師に対して、「あなた、あまり低学年のことを知らないでしょう」と低学年の指導歴も数年目に入ったこの教師に対して断罪したとのこと。

それでも謙虚なこの女性教諭は、憤慨するでもなく反抗するでもなく、「すっかり困ってしまいました。どうしたらいいでしょう」と苦笑いしていた。

私は、いろいろな考えがあるだろうから(実際、本当にそうだったのだ。この学校の内部にも、先述した指導主事と同じ見解は少なからずあった)、最後は全体的な視野で指摘されたことを踏まえて、自分が一番良いと思ったプランでやるべきだと思う、と伝えた。

これ以上何か言うと、本当にこの授業者が困ってしまうだろうと考えたので、これ以上口を挟むのはやめにした。授業は、授業者と子どものものである。

さて、授業当日、この女性教諭は、私と相談したプランをそのまま敢行した。

子どもたちは、こちらが想定した「授業者にとって都合の悪い反応」を見事に具現した。ハチドリのくちばしの図は、スズメのようなものやフラミンゴのようなものまで7〜8種類も登場した。

「これでいいよね」と間違いが明らかな図を取り上げると、「それは違うよ!」とえらい剣幕で否定し、教科書を持ち上げて関連する叙述を指差しながら、<ほそながくのびた>を根拠にする子どももいたため、叙述に立ち返るという最も難関としていたところもすんなりクリアした。

それでも女性教師は、キツツキのようなくちばしを取り上げて、「これもほそながくのびているでしょう?」ととぼけたところ、「それは<するどくとがっている>の!<ほそながくのび>ているのは、先のところがすぼまってないんだよ」と見事な説明までしてみせた。

低学年のことをよくわかっていないのは誰なのか。という気持ちは依然としてわだかまってはいるが、本題はそこではない。

この授業が成立した一番の要因は、この授業者が「自分にとって一番都合の悪い子どもの反応を想定し、その子どもへの対処を通してねらいとする学びを成立させようとしたこと」にある。

今後の授業づくりにも生きて働く定石はこの点にある。

翻って最近は、学習指導案に記述されている「子どもの反応の予想」が、見事なまでに絵に描いた餅状態であるが気になって仕方がない。

ある社会科の授業を参観していたところ、授業者が「関ヶ原の合戦で敵側についた大名を、江戸幕府ではどこに配置しましたか」と尋ねたのに対し、全員が「遠い地域におきました」と調べたことを答えていた。ここでもし、「自分が将軍なら、関ヶ原で敵側についた大名をどこに配置する?」と尋ねたら、どのような反応が返ってきただろうか。「信用ならないから打ち首にして配置なんかしない」とか「何をするかわからないからいつでも監視できるように近くの地域に置く」と考える子どももいるのではないかと考えた。これが、子どもらしい発想だろうと思うのだが、どうも最近は子どもも教師が期待している答えがよくわかるらしく、こうした疑義は唱えられることもないようだ。

きっとそういうことを感じている子どももいるのではないかと思う。しかし、おそらくは、そのような発言は慎んでほしいというサインを授業で醸し出しているか、あるいは実際にそのように言っているのではないかとすら思う節がある。

とにかく授業が淀みなく、指導案どおりに進むのだ。テンポの良さこそ我が授業の本質、と言わんばかりの予定調和の世界である。

またある国語の授業でも、子どもたちはよく発言し、授業者にとって最も都合の悪い発言は散見されたが、授業者が取り上げるのは都合の良い発言ばかりで、都合の悪いものは何度もスルーされるので、最終的にはその類の発言者は発言しなくなっていく「システム」だった。

それは4年『一つの花』(光村図書)、お父さんが家族との別れ際、ゆみ子に一輪のコスモスを上げた理由を考える場面だった。一部の子どもたちは、「お父さんのことを忘れないでほしい。お父さんの代わりにこの花をあげるよ」という解釈だった。

ところが、エピローグの場面には、<お父さんがあったことも、あるいは知らないのかもしれません>という叙述がある。これを取り上げて「コスモスをあげた意味はなかっただろう」という疑問を呈した子どもがいた。これは、授業者も織り込み済みだったようで、どう思うのかをほかの子どもたちに問いかけていた。ここまでは良かったのだが、ある子が「<お父さんがあったことも、あるいは知らなかったかもしれません。でも、ゆみ子のとんとんぶきの小さな家は…>とあることに着目した。そして、「この<でも>で結ばれていることがすごく気になるんだけど、どう考えたら良いのか分かりません。ただ、コスモスの花をあげた意味がないっていうのとは違うと思います。」と発言したのには、授業者が全く対応できず、これもスルーしてしまったのだった。

授業後、そのことを伝えたのだが、授業者がそれに対して返してよこした言葉は、「ああ、それを取り上げれば<お父さんのことを忘れないでほしい>という解釈は除外できたでしょうね」だったので、この<でも>の意味はまだこの授業者には理解できていなかったのだと納得した。

授業者にとって一番都合の悪い子どもの反応は、このように、授業者の教材解釈の深さが試されるものが多い。

子どもは、常に授業者の一番弱いところを突いてくる。それも無意識に。

なぜなら、子どもらしい発想による反応というものを、授業者は、大人であるがゆえに忘れているからだ。

だから、平素の子ども理解を通して、この子ならこんな発想で考えるだろうという教材研究を落としてしまうと、授業の核心に触れる子どもの反応をスルーしてしまう羽目になる。

『一つの花』のエピローグにおける<でも>という逆接の接続語は、「父のことは忘れても、父の願いはゆみ子と母に託されて実現している」という語り手の態度を表す重要なものである。

それが、一見無関係な事実を二つ逆接でつないでいるように読めるがために、発言した子もその違和感を十分に語りつくせないでいる。しかし、この子の直感は非常に正しいし、これこそが言葉による見方・考え方を働かせた子供の姿の最たるものである。

『一つの花』の冒頭部で、父はこうつぶやいている。<この子は、一生、みんなちょうだい、山ほどちょうだいと言って、両手を出すことを知らずにすごすかもしれないね。(中略)みんな一つだけ。一つだけのよろこびさ。…>

父は、ゆみ子がもらえるものが一つだけだということを嘆いているのではない。喜びを感じる機会に乏しいことを嘆いているのである。この直前、母が<一つだけちょうだいと言えば、なんでももらえると思っているのね。>とゆみ子を哀れんでいるのとは、嘆きの質が異なるのである。

だからこそ、エピローグの逆接の語り後半で、<でも、…コスモスの花がいっぱい咲いています。>ではなく<でも、…コスモスの花でいっぱいに包まれています。>という表現をとった態度も、父の立場になってみれば、<父は忘れられたかもしれないが、父が願った喜びをたっぷりとという願いは叶った>という暗示として際立つ。

このような解釈は、子ども自身がなんとなく感じていても、うまく説明できないことが多いはずだ。しかし、確かに感じている子どもはいるのであるから、それを言語化してやるための算段は、授業者として明らかにして授業に臨む必要がある。

かように、授業者にとって最も都合の悪い子どもの反応は、授業者の深い教材研究を要求してくるものでもある。

理解の深浅を問わず、子どもの深い学びを実現するチャンスは、こうした反応に隣接しているものである。「主体的・対話的で深い学び」の実現をねらうのであれば、まずはこのような教材研究から出発しないことには、いくら授業技術を云々したところで、何も改善されないのではないか。

学習指導案に、最も都合の悪い反応を想定して明記すること。その対応策を授業展開の核にすること。

このことだけで、新しい学習指導要領の趣旨は、十分に実現できるものと考えるがいかがだろう。

スイミーは考えた

『スイミー』の研究授業が目白押しの6〜7月であった。非常に共通点の多い授業がたくさんあった。学習過程の順に列挙してみる。

①「すきなばめんをつたえ合おう」が単元名で、単元を貫く言語活動は、ペープサート劇か並行読書を取り入れた読書紹介である。

②教室には全文掲示。子どもたちの感想が至るところに書き込まれている。掲示物には、ふんだんに挿絵が用いられ、子どもたちが学習への期待感を高めるであろう圧倒的なビジュアルであった。

③導入時に物語のあらすじやその時の登場人物(主にスイミー)の気もちについて考えさせ、発表させる。

④好きな場面の挿絵に吹き出しを添えたワークシートを準備し、「スイミーの気もちになって」セリフを書き入れる活動を設定している。

⑤「対話」による交流を取り入れている。

⑥「対話」による交流の成果を全体で共有する場面を設定している。

⑦本時の振り返りをワークシートに記入し、全体の場で数名に記述の内容を発表させている。

⑧「スイミーの気もちがだんだん分かってきたね。いよいよ次の時間はスイミーのペープサート劇をするよ」という授業者による予告で、期待感とともに授業を終える。

典型的ないわゆる「単元を貫く言語活動」の試みである。

それぞれに疑問が浮かんだ。これまた列挙する。

<①について>

「お気に入りの…」「大好きな…」 を紹介する単元の導入時に、まずゴールを示すのは、いくら何でも乱暴な前提があり過ぎないか。

千葉大の小久保美子氏が『初等教育資料』(平成25年6月号)で述べている通り、お気に入りや大好きの理由を考えることは、批評の入り口に立たせることだというのは、とてもよく分かる。

しかし、それは、その子に「好きな場面がある」ということを前提としている。一、二度通読した程度で、好きな場面や好きなせりふ、人物などが、そう簡単に見つかるものか。

また、「単元を貫く言語活動」が推奨されている背景には、「教師の期待する答えを探ることに子どもが集中する授業」に対するアンチテーゼであったはずだ。

それが、単に「教師が期待する表現方法を子どもがなぞる」ことにすり替わっただけではないか。読み取ったことの表現に辿り着く前に、「まずはしっかり読ませてから…」と旧来の読解授業を繰り返している教師は依然として多い。

つまり、単元の導入でするべきは、ゴールを示すことではなく、学習方法を見通すことでもなく、まずは教材と子どもとの距離を縮め、好きな場面や人物等、教材の魅力に一つでも気付けるようにすることではないか。

ここ数年否定されてきた「場面ごとに読解をする授業」を非常に効果的に実践してきた教師は、この意識が非常に高かったし、どの時間でも確実に子ども同士の課題解決を実現していた。そして、「場面ごと」ではあったが、その指導内容は確実に精選されていたため、無駄な時間をかけることはなかった。意欲的な子どもは、今の状況と比べても特段に少なかったとは言えない。

<②について>

ときどき、掲示した挿絵の構成が、教師の解釈を押し付けている。「見たこともない魚たち。見えない糸でひっぱられている。」を、挿絵を作って見せてしまっている。

そこを想像させるのが、この授業の面白いところなのに。そして、延々とスイミーの努力や兄弟たちとの結び付きばかり考えさせている。

教えたいことが、道徳的なそれと大差ない授業観、指導観は、なんら変わらないまま、形式だけ単元を貫いている。

「単元を貫く言語活動」は、こうした旧来の教師主導で道徳的な教材価値や指導観をも覆すべく提案されたはずである。それにもかかわらず、教師の価値観はなかなか変わることがないのは、いったいなぜなのか。

これは、「やってみたけれど、なかなか子どもたちの交流に深まりが見られないことにフラストレーションを感じている」という多くの教師が漏らす不満や不安と関連しているのではないか。そう感じている教師たちのSOS信号に、もっと謙虚に耳を傾けるべきではないか。

<③について>

あらすじを書くことは、小学校2年生の発達にふさわしくない。要約力が必要とされる。大まかな話の流れをつかむことと、あらすじを述べることとは異なる。

言語活動の内容をつい欲張り過ぎて、発達の段階に合わない学習内容を取り入れていることに見落としてしまった実践が増えている。

また、スイミーの気持ちの変化にばかり焦点を当てていると、間違いなく見落とすことがある。②で既に述べた「見たこともない魚たち」の例もその一つである。

単元の目標には、「人物の気持ちや場面の様子を想像して…」と示しているが、どちらか一方で十分に授業として成立するはずである。

また、こと『スイミー』の授業に関しては、「人物の気持ち」に焦点を当てた場合に、「兄弟を失った悲しみから立ち直り、団結を通して自己実現を遂げた喜び」という紋切り型の解釈を、どの子どもにも確立させようとして誘導的な問い返しや揺さぶりをする教師の姿を頻繁に見ることになる。先述した道徳的な教材価値を押し付けようとしているのである。

この授業に、とてつもなく居心地の悪さを感じるあまり、最近は『スイミー』で場面の様子について想像を広げる楽しみを教える授業にねらいを特化した授業ができないものかと助言の度に提案している。

<④について>

吹き出しに書いたセリフと、好きな場面とその理由を紹介し合う活動を一単位時間の中に取り入れているが、前者と後者はどのように関連しているのか、不明な授業が多い。

<⑤について>

対話は、吹き出しに書いたセリフを読み合うか、好きな場面とその理由を読み合うかがほとんどである。

本当の意味で対話になっている活動をまだ見たことがない。

対話は、対話的な精神、対話的な姿勢など、心構えや態度を表すものだと、かつて講演で倉沢栄吉先生が述べられたことを思い出す。少なくとも、学習方法のような狭義のものではないはずだ。

「さあ、これから対話だよ」という教師の言葉にゾッとしたことが何度もあった。

<⑥について>

全体での交流は、グループでの対話のやり直しでしかない。ねらいの実現に迫る教師の問い返しや揺さぶりはついぞ聞けずじまいであった。

「また魚のきょうだいたちが食べられないように、なんとかしなくちゃ」と吹き出しに書いた子に、「またって、どういうこと?このきょうだいたちも、前に食べられたことがあるの?スイミーのきょうだいたちと同じ魚たちなの?」と問い返してほしくて、うずうずする場面が何度もあった。

<⑦について>

「○○さんが書いた△△という言葉がいいなと思いました。」という感想を書いた子どもばかり妙に褒められ、取り上げられる。

「私が書いた○○というセリフが、スイミーの△△な気持ちが伝わってくるよと□□さんに言われて、あ、そうだったんだ、と思いました」というように、自分の書いたセリフに内在する意味を新たに気付かされるような場面も、少なからず見られた。

ところが、そのことに気づく教師が少ないから、当然子どもも気付いていない。

<⑧について>

次の時間何をしたいか、たまには子どもに聞いてみるとよい。

さんざん感想を書かせたのに、ペープサート劇ではリセットして新たにセリフを考えさせている授業もあった。

なぜ書かせたセリフを使うか!それをブラッシュアップさせない。

 

特に⑥と⑦に関しては、授業者が言語活動を遂行することに目一杯になっている様子が、ありありと窺える。

子どもの記述や発言が、どのような解釈に裏付けられたものなのかを探ったり、更に深い解釈を引き出すための手立てを講じるような余裕が全くない。

本来授業力のある教師として定評のあった中堅からベテランの教師が、そのような状況に陥っている。

それが『スイミー』という教材のもつ難しさなのか、「単元を貫く言語活動」のもたらす副作用なのか…。

いまも、スイミーは考えている。いろいろ考えている。うんと考えている。