最も都合の悪い反応がおいしい

数週前、初任者である長男が珍しく授業の相談をもちかけてきた。

どうやら指導教員に算数の授業を観てもらう日が近いらしい。

課題の設定も、学習活動の構想も、そんなに悪くない。いや、正直なところ、父親の贔屓目であることを差し引いても、よい授業プランだと感じた。

親バカとは思いながらそのことは率直に伝えつつ、一つくらいなにか役立つことを、と考えてとっさに口をついて出たのが、「自分にとって一番都合の悪い反応を想定して、そのような反応をした子にも学びが成立するようにプランニングしたらいいよ。」という言葉だった。

言ってからハッとしたのは、最近このことを学校への助言でも使う頻度が上がったな、ということだ。この発言、最初に使ったのはいつだったろうかと、記憶の意図を手繰った。

いまから10年も前のこと、小学校1年生の説明的文章の教材『くちばし』(光村図書)の授業について、相談を持ちかけられた。授業者は、20代後半だが既に低学年の指導が板についた女性教諭だった。当時彼女は、30代半ばの学年主任と組まされ、「よく主任の指導に学ぶように」と言われていたが、私からしてみれば、力で押さえつけることの多い学年主任よりも、声を荒げることもなく、子どもの微妙な表情の変化や仕草の違いにアンテナを高くして、あるべき方向へとさりげなく誘う彼女の力量の高さに学ぶことの方が多かった。

さて、この女性教諭が困っていたのは、『くちばし」という教材は、小学校で初めて出会う説明的文章教材だから、「問いの文と答えの文との関係」をしっかりと教えたいという。しかし、授業プランは、「このお話を書いた人は、なにを知りたいと思っていますか」「その答えはどこに書いていますか」という発問が、各段落を読み進めるごとに繰り返される、ごく単調なものだった。これでは子どもは楽しくない。(これを、わかる授業が成立するからという理由で「楽しいはずだ」と言って譲らない教員が、思ったよりもベテランに多いことを悲しく感じる昨今であることを付け加えておく)

そこで、いろいろとその女性教諭が考えていることや、クラスの子どもの実態を聞き取りながら、図と言葉の往還を通して、少しでも子どもが考える授業を成立させ、言葉の微妙なニュアンスの違いにアンテナを働かせる授業にしましょうということになった。いまでいう、「言葉による見方・考え方を働かせて課題を解決する」授業である。おおよそ、次のような手順であった。

1 くちばしだけが欠落した鳥の顔の絵を提示する。

2 教師がその絵に誤ったくちばしの図を描き加え、子どもたちに正誤を問う。

3 誤りを指摘する子どもたちの表現をつぶさに聞きとり、それにさらに誤った解釈の図の修正案を提示する。

4 しびれを切らした子どもたちが「自分に書かせろ」と言い出すのを待つ。

5 子どもに描かせた図(正しいものから正確でないものまで全て含む)と比べ、どこが違うのか、教師の描いた図で良いのではないかと議論を仕掛ける。

6 ここで初めて、どんなくちばしだったらよいのかな?という問いを自覚させ、その問いが、教材文にも筆者の言葉として明示されていることに気づかせる。(筆者と子どもがここで同じ目線に立つことになる)

7 正しいくちばしの図を描くために、教材文に立ち返り、何のために、どのようなくちばしがついているのかという問いを持って読む。

8 くちばしと食べものの特徴との因果関係に気付き、正しいくちばしの形状と、その表現の仕方を確認する。(例:「ほそながくのびた」と「するどくとがった」の違いなども、このときに確認する)

9 まとめとして、正しいくちばしの図を描き、食べるものの特徴との関係を捉えて、隣の席の友達に説明する。

おおむねこのような授業プランであった。2の段階では、くちばしではなく「くちびる」を描いて子どもたちを笑わせながらも、くちばしとくちびるの違いを言わせたりして遊ぶアイディアも出るなど、授業者も「国語ってこういう指導もできるんですね」とノリノリだった。

とりわけこの女性教諭にとって新鮮だったのは、5の学習場面で子どもが正しい図を描くことができない場合の対応だった。「間違いを利用するなんて、考えたこともありませんでした。どのようにして訂正するか、指導の仕方を一生懸命考えていたのに、<これでいいよね?>なんて提示する勇気はありませんでした。」という感想を話していたのが印象的だった。これは、女性教諭が5の段階でも正しい図を描けない子が多いはずだという不安を口にしたことがきっかけで、私が「間違えが出る方が都合が良いでしょう。だって、それが問いを持つことに繋がるんだから」と答えことに端を発している。

「子どもたちもこれなら喜んで間違えるし、教材文を進んで読もうするはずです」と、授業者自身が授業を楽しみにするようになった。

さて、指導案提出の数日前、この女性教諭から不思議な相談を受けた。

敎育行政のとある機関が、全県規模のネットワーク会議システムを利用して、若い教員の授業の相談に乗るという企画を立ち上げた。当時の管理職が、これを積極的に利用するように働きかけられたことから、ちょうど指導案の締め切りが近づいているこの女性教諭に、勉強の機会を与えるとともに、指導案の最終仕上げをするのに都合が良いということで、このシステムを利用してとある指導主事の助言を仰いだ。

「不思議な相談」のきっかけは、この指導主事から受けた「助言」に、授業者である女性教諭は戸惑ったことが原因だった。

「子どもがくちばしの図を描けないわけがない」「図を描く活動に夢中になったら子どもは文章なんて読もうとしない」「<ほそながい>と<するどい>の違いを説明できるわけがない」などなど、ほぼ全否定だったというのだ。しまいには、この女性教師に対して、「あなた、あまり低学年のことを知らないでしょう」と低学年の指導歴も数年目に入ったこの教師に対して断罪したとのこと。

それでも謙虚なこの女性教諭は、憤慨するでもなく反抗するでもなく、「すっかり困ってしまいました。どうしたらいいでしょう」と苦笑いしていた。

私は、いろいろな考えがあるだろうから(実際、本当にそうだったのだ。この学校の内部にも、先述した指導主事と同じ見解は少なからずあった)、最後は全体的な視野で指摘されたことを踏まえて、自分が一番良いと思ったプランでやるべきだと思う、と伝えた。

これ以上何か言うと、本当にこの授業者が困ってしまうだろうと考えたので、これ以上口を挟むのはやめにした。授業は、授業者と子どものものである。

さて、授業当日、この女性教諭は、私と相談したプランをそのまま敢行した。

子どもたちは、こちらが想定した「授業者にとって都合の悪い反応」を見事に具現した。ハチドリのくちばしの図は、スズメのようなものやフラミンゴのようなものまで7〜8種類も登場した。

「これでいいよね」と間違いが明らかな図を取り上げると、「それは違うよ!」とえらい剣幕で否定し、教科書を持ち上げて関連する叙述を指差しながら、<ほそながくのびた>を根拠にする子どももいたため、叙述に立ち返るという最も難関としていたところもすんなりクリアした。

それでも女性教師は、キツツキのようなくちばしを取り上げて、「これもほそながくのびているでしょう?」ととぼけたところ、「それは<するどくとがっている>の!<ほそながくのび>ているのは、先のところがすぼまってないんだよ」と見事な説明までしてみせた。

低学年のことをよくわかっていないのは誰なのか。という気持ちは依然としてわだかまってはいるが、本題はそこではない。

この授業が成立した一番の要因は、この授業者が「自分にとって一番都合の悪い子どもの反応を想定し、その子どもへの対処を通してねらいとする学びを成立させようとしたこと」にある。

今後の授業づくりにも生きて働く定石はこの点にある。

翻って最近は、学習指導案に記述されている「子どもの反応の予想」が、見事なまでに絵に描いた餅状態であるが気になって仕方がない。

ある社会科の授業を参観していたところ、授業者が「関ヶ原の合戦で敵側についた大名を、江戸幕府ではどこに配置しましたか」と尋ねたのに対し、全員が「遠い地域におきました」と調べたことを答えていた。ここでもし、「自分が将軍なら、関ヶ原で敵側についた大名をどこに配置する?」と尋ねたら、どのような反応が返ってきただろうか。「信用ならないから打ち首にして配置なんかしない」とか「何をするかわからないからいつでも監視できるように近くの地域に置く」と考える子どももいるのではないかと考えた。これが、子どもらしい発想だろうと思うのだが、どうも最近は子どもも教師が期待している答えがよくわかるらしく、こうした疑義は唱えられることもないようだ。

きっとそういうことを感じている子どももいるのではないかと思う。しかし、おそらくは、そのような発言は慎んでほしいというサインを授業で醸し出しているか、あるいは実際にそのように言っているのではないかとすら思う節がある。

とにかく授業が淀みなく、指導案どおりに進むのだ。テンポの良さこそ我が授業の本質、と言わんばかりの予定調和の世界である。

またある国語の授業でも、子どもたちはよく発言し、授業者にとって最も都合の悪い発言は散見されたが、授業者が取り上げるのは都合の良い発言ばかりで、都合の悪いものは何度もスルーされるので、最終的にはその類の発言者は発言しなくなっていく「システム」だった。

それは4年『一つの花』(光村図書)、お父さんが家族との別れ際、ゆみ子に一輪のコスモスを上げた理由を考える場面だった。一部の子どもたちは、「お父さんのことを忘れないでほしい。お父さんの代わりにこの花をあげるよ」という解釈だった。

ところが、エピローグの場面には、<お父さんがあったことも、あるいは知らないのかもしれません>という叙述がある。これを取り上げて「コスモスをあげた意味はなかっただろう」という疑問を呈した子どもがいた。これは、授業者も織り込み済みだったようで、どう思うのかをほかの子どもたちに問いかけていた。ここまでは良かったのだが、ある子が「<お父さんがあったことも、あるいは知らなかったかもしれません。でも、ゆみ子のとんとんぶきの小さな家は…>とあることに着目した。そして、「この<でも>で結ばれていることがすごく気になるんだけど、どう考えたら良いのか分かりません。ただ、コスモスの花をあげた意味がないっていうのとは違うと思います。」と発言したのには、授業者が全く対応できず、これもスルーしてしまったのだった。

授業後、そのことを伝えたのだが、授業者がそれに対して返してよこした言葉は、「ああ、それを取り上げれば<お父さんのことを忘れないでほしい>という解釈は除外できたでしょうね」だったので、この<でも>の意味はまだこの授業者には理解できていなかったのだと納得した。

授業者にとって一番都合の悪い子どもの反応は、このように、授業者の教材解釈の深さが試されるものが多い。

子どもは、常に授業者の一番弱いところを突いてくる。それも無意識に。

なぜなら、子どもらしい発想による反応というものを、授業者は、大人であるがゆえに忘れているからだ。

だから、平素の子ども理解を通して、この子ならこんな発想で考えるだろうという教材研究を落としてしまうと、授業の核心に触れる子どもの反応をスルーしてしまう羽目になる。

『一つの花』のエピローグにおける<でも>という逆接の接続語は、「父のことは忘れても、父の願いはゆみ子と母に託されて実現している」という語り手の態度を表す重要なものである。

それが、一見無関係な事実を二つ逆接でつないでいるように読めるがために、発言した子もその違和感を十分に語りつくせないでいる。しかし、この子の直感は非常に正しいし、これこそが言葉による見方・考え方を働かせた子供の姿の最たるものである。

『一つの花』の冒頭部で、父はこうつぶやいている。<この子は、一生、みんなちょうだい、山ほどちょうだいと言って、両手を出すことを知らずにすごすかもしれないね。(中略)みんな一つだけ。一つだけのよろこびさ。…>

父は、ゆみ子がもらえるものが一つだけだということを嘆いているのではない。喜びを感じる機会に乏しいことを嘆いているのである。この直前、母が<一つだけちょうだいと言えば、なんでももらえると思っているのね。>とゆみ子を哀れんでいるのとは、嘆きの質が異なるのである。

だからこそ、エピローグの逆接の語り後半で、<でも、…コスモスの花がいっぱい咲いています。>ではなく<でも、…コスモスの花でいっぱいに包まれています。>という表現をとった態度も、父の立場になってみれば、<父は忘れられたかもしれないが、父が願った喜びをたっぷりとという願いは叶った>という暗示として際立つ。

このような解釈は、子ども自身がなんとなく感じていても、うまく説明できないことが多いはずだ。しかし、確かに感じている子どもはいるのであるから、それを言語化してやるための算段は、授業者として明らかにして授業に臨む必要がある。

かように、授業者にとって最も都合の悪い子どもの反応は、授業者の深い教材研究を要求してくるものでもある。

理解の深浅を問わず、子どもの深い学びを実現するチャンスは、こうした反応に隣接しているものである。「主体的・対話的で深い学び」の実現をねらうのであれば、まずはこのような教材研究から出発しないことには、いくら授業技術を云々したところで、何も改善されないのではないか。

学習指導案に、最も都合の悪い反応を想定して明記すること。その対応策を授業展開の核にすること。

このことだけで、新しい学習指導要領の趣旨は、十分に実現できるものと考えるがいかがだろう。