学校再開後、3週間の様子から

自分の職場が管轄する区域の学校は、臨時休校措置が解かれて3週間が過ぎた。

学校再開直後に想定された懸案事項は、子どもの生活リズムの変調に伴う心身の不調だった。これは教員にも同じことが言える。

さて、実際はどうだったかというと、子どもも教員も、思った以上に日常生活を取り戻している。特に先生方に至っては、「子どもが学校に帰ってきて、この上ない喜びを感じている」という声が目立つ。とにかく学校が活気に満ち、子ども以上に先生方が張り切っている。これが訪問をした上司や同僚たちの共通した感想であった。自分も所用があって数校にお邪魔したが、やはり同じことを感じた。

老婆心ながら懸念されるのは、「学校再開ハイ」とその反動からくるくたびれだろう。「遅れを取り戻さなければ」という使命感もあいまって、「自分が頑張らなければ子どもたちがきちんと育たない」という意識を過剰に働かせてしまう教員が増えることが懸念される。真面目で有能な先生にそういう症状が出やすいのではないか。とにかく、行き過ぎた管理や、行き過ぎた指導、行き過ぎた使命感が、無言の同調圧力となって職員の関係に軋轢を生じさせないように、管理職が率先して温かでゆったりとした構えを見せてほしいものだ。今のところ懸念したほどの極端な話は聞いていないが、兆候かな、と思うケースはいくつか漏れ聞こえている。自ら気づいてくれることを祈るのみである。周りにクールダウンの大切さを感じさせてくれる同僚や上司がいればよいのだが。

さて、子どもはというと、やはり柔軟というか純粋というか、登校しぶりの話や気疲れからの不登校傾向などは、ほとんど聞いていない。張り切り過ぎたりはしゃぎ過ぎたりして、小さな怪我は多いそうだ。これは随分と多くのところから聞こえてくる。しかし、こちらに上がってくるレベルの事故や救急搬送に至るようなトラブルは、思った以上に少ない。自粛生活に慣れきった体が、学校においても知らず知らず自己抑制をかけるようになっているのだろうか。

張り切っている先生方が多い一方で、最もよくある問い合わせが、「ペアやグループでの話合い活動ができない中で、どのようにして対話的な学びの充実を図ったらよいか」という類いだ。

令和2年3月24日付け「新型コロナウイルス感染症に対応した学校再開ガイドライン」p4「(2)近距離での会話や発声等の際のマスクの使用等」には、このように書いてある。

(引用開始)

 多くの学校においては人の密度を下げることには限界があり、学校教育活動上、近距離での会話や発声等が必要な場面も生じることが考えられることから、飛沫を飛ばさないよう、咳エチケットの要領でマスクを装着するなどするよう指導すること。

(引用終了)

他の文書をくまなく探してみても、「話し合うな」とは一言も書いていない。ところが、他の管轄区の指導主事が、話合いはできるだけ避けるようにと、指示したという話も聞いて少し驚いている。国の文書というものは、広く地域の特色に応じた柔軟な対応が可能となるよう、できるだけ具体性を避けつつ、しかし多様な解釈が過剰になされ過ぎないギリギリのところで着地させるように配慮されている。時にそれが優柔不断に感じられたり、遠回しに強権発動をしているように受け止められたりすることもあるが、それはきっと読み手の状況がそのようなバイアスを発生させているからである。

読み手の状況が全国規模で強大な力となって発動してしまった例として、真っ先に思い出すのは、総合的な学習の時間の領域例である。文科省が取り上げた領域例「国際・環境・福祉・情報」は、必須条件であったり最低基準であったりとして、まことしやかに流布してしまった。みんなが、教育内容を学校が裁量できるという前例のない教育活動を任されて、不安の坩堝に陥ってしまい、パニックになったのだと思う。「例」なのだから、地域や学校の実情に応じて柔軟に変えることはやぶさかではないはずだ、といくらこちらが主張しても、当時の行政担当者は首を縦に振らなかった。(まあ、今の自分の立場の人なのだが…)

話が逸れてしまったが、とにかく、国の文書に書いていないことまで、都合に応じて良くも悪くも受け取らず、的確に理解してほしい。「話合いはできないわけだが…」という問い合わせをしてくる学校で、実際に行って様子を見てみたら、子どもたちは、手洗い場でくんずほぐれつしてじゃれあってるし、グラウンドで50人くらいの集団が密集して走っているのである。そのうちの半分くらいがマスクをしたままだったので、そっちの方にドキドキしてしまった。話し合ったって、今更なんの違いもないだろうという状況である。これではだめだ、規制を強化しろ、と言いたいのではない。学校を再開するとは、そういうことではないか、ということだ。くだんの国のガイドラインも、もう避けられないことは避けられないのだから、と言っているわけだし。

中には、今回の事態を、旧態依然とした教師が一方的に説明する授業形態に戻すことの方便としていることについても漏れ聞いている。これは当然予測されたことである。授業者からしてみれば、そのほうが楽なのだし、とにかく遅れた授業を取り戻し、時短を図るにはこれしかないだろう、と居直ってしまうことは、さもありなんというところだ。

こういう状況だからこそ、学習指導要領の趣旨や、教育が長い歴史の中で積み重ねてきた実践や研究の成果に、しっかりと目を向けるべきではないか。特に、時数確保に関する教育課程の編成には、様々な英知を結集させたいものだ。

例えば、国語や体育など一部の教科の学習指導要領では、小学校の段階で、二学年ごとに指導内容を整理している。ということは、奇数学年のうちに、指導すべき内容のあらかたは、ある程度の指導を済ませているはずだ。それならば、二学年ごとに指導内容をまとめて示している教科においては、偶数学年でその複合的な活用を図った単元に再構成した上で、余剰時数の消化を極力控え、その分を算数や理科など、教科書の順序に沿って指導する必要がある系統性の高い教科に譲ることができるだろう。

さらに言えば、国語は、同じ資質・能力を繰り返し活用しながら発展的に学んでいく要素が強い教科である。体育、図工、美術、音楽でも同様だろう。ところが、教師が子どもを前に張り切ってしまうことの悪癖はここにも表れており、年度の初めと終わりで、何度も同じ内容を同じテンションで、同じだけの手間暇をかけて指導してしまいがちだ。春先にある資質・能力の獲得に要した時間が、秋や冬になっても同等の時間数を要するとは考えられない。仮にちょっと忘れていたことも、少し待ってやれば思い出すものだ。慣れから忘れてしまうこともあるだろうが、活用を図る際に一言指摘するだけで済む。そういう実態を十把一絡げに「子どもはすぐに忘れるから、いちいち丁寧に指導しなければ」と判断してしまう教師があまりにも多い。しかし、それは教えたい自分の性分を都合よく糊塗し、指導者としての欲望に正直になってしまっただけ。ただの自己満足である。自分がかつてそうだったから、これはそんなに外れていないだろうと思う。

教育課程編成の工夫に、ICTの活用に関する条件整備が進んでいれば、なおさら子どもの学びは加速度が高まるのであるが、悲しいことに自分の管轄区は、国内で一二を争う後進ぶりである。このことは、数年前の国の調査からも明らかとなった。国は昨年度来、ギガスクール構想を打ち出し、ICT後進国であるとのレッテルから脱却せんと莫大な予算を配分する方向に舵を切った。オリンピックを間近に控え、プログラミング教育やらギガスクールやらと急ピッチで先進性を高めようとしている。世知辛いものを感じなくもないが、国際関係というものはそういうものなのだろうか。

このギガスクール構想については、予算配当を希望する自治体に提示した申請期限が、告知された段階で残り一か月を切っていたことから、何かと紛糾した話題であった。それでも、あまり文句も言わず、子どもたちのためになんとかできないかと不眠不休で申請手続きの準備をし、どうにか予算執行に漕ぎ着けた自治体もある。ところが、好事魔多しというか、ある程度予測された落とし穴はここにもあった。各市町村の目下の悩みは、設備維持の予算がないことだという。このことについては国が支援するという話は今のところ聞いていない。維持費の予算化が難しい見通しであることを理由に、申請に踏み切れなかった市町村も少なくない。

ここ数年で、英語授業を促進するための措定として、電子黒板はよく目にするようになった。一方で、デジタル教科書はまだ活用事例を見た試しがない。zoomなどによるオンライン授業などは、大学や一部の高校で実施されているようだが、小・中学校では比較的に環境が良い附属校ですら試行してみた上で断念したらしい。多くは、機材の不足、回線の脆弱さ、家庭のオンライン環境の格差によるものだということも聞き及んでいる。

しかし、一番の理由は、一度壊したらもう直せない、使えなくなるという恐怖心から、導入された機材を過度に保護する傾向があることではないだろうか。先生方がそれを使って遊んでみる余裕がないので、子どもにも遊ばせてやれずにいる。ちょっとくらい壊してもすぐ直すから、遊んで使いながら覚えましょうと大盤振る舞いするほどの予算もないのが、片田舎の市町村の実態である。この点においては、全て金の問題なわけだ。

子どもは、遊んでいるうちに、すぐに使い慣れるものだ、とICTに詳しい先輩教師が語っていた。プログラミングのアプリをなんの説明もなく預けて15分もすると、授業者も想定していなかった使い方を発見する子どもが後を絶たないので驚いた、とその先輩は語っていた。もっと子どもを信じるべきだと。

子どもは、我々が思っている以上に強く、たくましいのだ。

時数の確保にしても、ICTの活用にしても、大人がどれだけ子どもを信じて任せられるか、という問題が浮き彫りになってくるのだが、その背景に、金銭的な事情が厳然としてあることは、なんともできないやるせなさを感じる。

一方で、もちろん子どもゆえの弱さを感じる問題もある。不審者対応だ。学校再開から3週間で、昨年の4月から5月末までの2か月間の発生数の倍以上のペースで不審者事案が発生している。長い巣篭もりの間に溜め込んだ欲望を、この3週間で我慢しきれずに吐き出そうとしているようだ。病んだ大人たちの病理は、かくも正直なものかと驚いている。子どもたちとともに、大人の病理も野に放たれた。声かけや追尾が中心で、まだ大きな事件に発展したものは皆無だが、気になるのは、しばらくそういう危険に晒されていなかった子どもたちが、近隣の店舗に駆け込んで助けを求めたりすることができず、とにかく家路を急いでしまうことだ。その結果、自宅の場所を知られてしまっていることが今後の懸念材料である。

早速、自分の職場の生徒指導担当が、注意喚起のリーフレットを作成し、来週早々に管轄区の学校に配布することにした。その中でも、危険を感じたらまず近くのお店に助けを求めて駆け込むよう、指示を徹底してほしい旨を示した。長い臨時休業中、子どもたちにとっては家庭がとても居心地がよく、自分が最も安心できる場所になっていたということが、ある意味あだになっている。これから開校を迎える地域の子どもたちが、こうした危険に晒されないことを願うのみである。

子どもは強くて弱い。大人は弱くて強い。そんな当たり前のことを、今更ながら実感した3週間であった。