問う順序が生むもの・生まないもの~『三つのお願い』の授業より~(2)

前回の授業から1週間後、別の学校でサポートに入った『三つのお願い』の授業についてご紹介します。

呼称に着目させ、同じく11の呼び方を見つけたあと、子ども達が重要な意味をもつ呼び方として選択したのは、やはり前回と同じ「レナ」「ゼノビア」「あんた」でした。

(余談ですが、「やつ」が入っていない以外、前回のクラスとほぼ変わらないのは、教材のもつ方向性が明確だからだと感じています。こういうところで子どもや教師によってぶれたりしないのは、実践の典型例を構築する上で非常にありがたく、私は個人的にこのようにぶれない教材を「力のある教材」と考えています。先日まで取り上げていた『森へ』もそんな教材のひとつと考えています。もちろん解釈が一つに統一できるから都合がよい、という意味ではありません。同じ言葉に目を留めるのだけれど、解釈は多様化する教材の方が好みです。授業もそうなることが好ましいと考えています。)

授業者の先生は、ここから取り上げる順序が私と異なりました。子ども達に『どこから考えてみる?』と尋ねたときから、私に一抹の不安がよぎったのですが、そのまま口を挟まずに流しました。子ども達が選んだのは「あんた」でした。このときも、なんとなく「まずいな」と思ったのですが、その根拠もはっきりしないし、何よりもそれを覆すための子どもが納得できる言葉も浮かばず、そこも進んでいくままにしてしまいました。

悪い予感は的中し、けんかの場面を中心にした子ども達の解釈は、

「ビクターは、レナに<あんた>と言われて怒ったのだと思う。」

「レナは、一セント玉がお願いをかなえるってことを、ころっと信じているビクターが馬鹿みたいだと思ったんだと思う。」

ということに終始し、単なる痴話げんかのレベルでこの二人の言い争いを解決してしまったのです。

もちろん授業者の先生は、私と十分な教材研究をしていますからうろたえました。必死に、軌道修正を図るのですが、言葉を上乗せし、問いを何度も言い直し、脈絡もなく前の場面に話を戻したりすればするほど、子ども達は押し黙っていきました。

「先生が粘っている。きっとぼくたちの言ってることが違うんだ。でも、他に何を答えたらいいんだろう…。」

きっとこういうことを考えているであろう子ども達の表情を見て、私もこれ以上授業者に協力しても、焼け石に水どころか火に油を注ぐことになるような気がしたので黙って進行させました。

私のアドバイスが不十分だったことを授業者の先生に詫びながら、問いの順序ということについて考えました。

なぜ表層的な考えに終始したのかというと、けんかの前提となるゼノビアとビクターの関係について、理解を深めていなかったからです。ビクターがゼノビアに対して抱いている願いについては、前回述べたとおりです。さらに付け加えるならば、ゼノビアがなぜ簡単に願い事を言わないかという理由もまた重要な背景が隠されているように思います。

レナ=ホーン(1917~2010)は、ハリウッドで活躍した1930~1940年代に「アイスビューティー(氷の美女)」と呼ばれていました。白人と黒人のハーフであった彼女は、人種的な問題でそうとう嫌な思いをさせられたようです。不本意な役回りを演じることも多々あったことでしょう。彼女は、第一線で活躍する間、人種差別への抗議から決して媚びた態度を見せなかったのだそうです。

転じてそのレナ=ホーンに憧れるゼノビアも、挿絵から予想するに非白人です。レナ=ホーンに憧れてハリウッドでの活躍を夢見ることは、実は今考えるよりもずっと非現実的な夢であったことが容易に予想できます。周囲にそんなことを漏らしでもしたら、大方の人間は大反対するか嘲笑を浴びせるかだったのではないでしょうか。だから親友のビクターにしか、その夢を語らず、母にも教えなかったのではないでしょうか。あるいは、その夢をそっと語ったとき、笑ったりせずにその夢の実現を信じたからこそ、ビクターは「親友」だったのだとも考えられます。そのような背景を考えれば、一セント玉の言い伝えは信じたくても慎重にならざるを得ないゼノビアの心中は察するにあまりあります。「こんなに簡単にかなってよいのだろうか。」と考えたのでしょう。物語中、こんな記述があります。

<そうなると、これはちょっと考えなきゃ、という気になった。家にもどりながら、わたしの頭の中は、ほんとにお願いがかなうのかなとか、だったら何をお願いしようかなとか、とにかく一セント玉のことでいっぱいだった。>

きっと真っ先に考えていたであろう願いは「レナ=ホーンのようなハリウッドスターになる」だったはずです。そこはビクターと同じでしょう。それでも<何をお願いしようか>迷ったのは、そんな大きな願いまでかなうものなのかどうか、さすがに逡巡したのです。それだけゼノビア自身にとっても重い夢であったのです。

そんなゼノビアにとって一セント玉をどう有効に活用するか、ということは、さっさと片付けられるような問題ではないのです。だから、ゼノビアの立場になって考えれば、ビクターの急いた態度は軽率に感じたのではないでしょうか。ゼノビアが<あんたみたいに、なんでもかんでも、ころっと信じたりしないだけよ>と吐き捨てた言動を、単にあまのじゃくになったゼノビアの気まぐれと片付けるには、残酷な感じがするのです。

もちろんこうした教材研究を子ども達に押しつけることは避けなければなりません。ただ、ビクターの願いくらいは、せめて子ども達に感じさせ、夢の重さに少しおののいているゼノビアの内面にも、ちょっとくらいは気付かせる手立てがあってもよいとは思うのです。

そのために、「レナ」と呼ばせるゼノビアと、「レナ」と呼んで憚らないビクターの関係は、きちんと押さえる。その積み上げがあった上でけんかの理由を問うことが、この教材に関しては正しい展開方法ではないかと考えました。(だからと言って、物語の進行順に読解を進めることが望ましいという単純な結論ではないことを予めお断りしておきます。)

問いの順序次第で、子どもをどのような方向に導いていくのか。この点については慎重な教材研究と子ども理解が必要です。今回の二つの実践を通して、授業展開や問いの順序について、改めてその重要性を痛感しました。

余談ですが、今回紹介した授業のあと、授業者である担任の先生は非常に粘り強く軌道修正されたようです。

「子どもの解釈は多様ですから、それぞれの文脈で解釈を深めたらいいでしょうね。」という私の言葉を信じてくれたようで、とても素晴らしい子ども達のまとめのテーマ作文を見せてくれました。

<自分でかなえたい願いは、自分で努力をして、自分の力でかなえる事を目標にしています。>

読解を一通り終えて、特に印象に残ったテーマについて、自分が感じたことを作文にまとめさせたそうです。

中でも特に感動した作文がありましたので、一部を紹介して、この回を終えたいと思います。

どんな反省の多い実践の中でも、誠実なリカバリーによってこれだけ深まるのだという勇気が出る作文でした。

キャプションに引用した一節は、まさにゼノビアの心の声を代弁したようでした。

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教育、映画、音楽、書籍についてOne Of The Brokenであることを承知で書き残していこうと思います。
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問う順序が生むもの・生まないもの~『三つのお願い』の授業より~(2) への2件のフィードバック

  1. tanigakky より:

    「ゼノビアのひみつって何だろう。」と漠然と考えていました。レナ=ホーンの社会的な背景がゼノビアのひみつをより重く、叶えがたいものに感じさせていたのかもしれないという考えに共感しました。そうであれば、親友のビクターに対する不自然なまでのゼノビアの振る舞いにも納得がいきます。
     これから、この単元に入るのでとても参考になりました。「ごんぎつね」からの流れでこの単元も呼称の変化を読み取らせていく展開をしていくつもりです。
     最後の感想文の子、とても素敵な信念を持っているんですね。

    • oneofthebroken より:

      感想をありがとうございます。数年前からずっと引っかかっていたゼノビアのアマノジャクな態度が、レナ=ホーンを調べることで解決するとは夢にも思っていませんでした。『三つのお願い』って実は結構社会派の作品だったんだと思っています。こういうディテールも手を抜かずに調べておくべきだったと反省する機会でもありました。とにかく知らないことはどこまでも調べていく。調べて得た驚きや感動をどうやって子どもたちにも提供できるか考える。このシンプルな作業に尽きますね。教師も知って驚く。これが教材研究の基本だな、と改めて感じています。

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